四葉とまじない


  校内を一人で歩いていて、はぁ。としえみはため息をついた。
  ここ最近夢見が悪かった。どんな夢を見たのかはっきりとは思い出せないけれど、誰かに置いて行かれる夢だった気がする。追いかけても届かなくて立ち止まって涙ぐんで――その時、声が響いてくる。

『置いて行かれたくはないでしょう?』

 と。その声が甘くしえみにささやいた後、誘惑するように暗闇から手がしえみに向かって差しのばされる。無条件でその手をとりたくなるほどに、夢の中でしえみはとても心細かった。ただ、しえみはその感覚に覚えがあった。祖母を亡くして一人庭で泣いていたしえみに力を貸してあげると悪魔が囁いた時と状況があまりにも酷似していた。その響いてくる声の魅惑的な響きも。
  だから、夢の中でもしえみはその言葉に頷きはしなかった。はずである。

「それはそうなんだけれど……」

 夢の言葉を思い返してしえみはひとり言を呟いていた。
  雪男は最年少で祓魔師になった天才で自分よりずっと遠いところにいる。
  燐は自分にはない勇気を持っていて誰かを助けることを絶対諦めたりしない。敵から逃げたりしない。
  いつもしえみは二人の背中を追ってきた。

 二人の側にいたくて、二人の役に立ちたくて、二人を助けたくて。

「でも、わたしだって少しずつだけれどみんなの役に立ててきているんだもん。大丈夫! これからも頑張ればきっと!」
――いつかは二人に守られるんじゃなくて一緒に戦えるはずだもん。

 追いかけてたどり着いた先に戦いが終わった後の傷ついた二人が待っているだけなんて。それが嫌で助けになりたくて祓魔師になることをしえみは決めた。それならこんな泣き言を言っている時間はないはずだった。

『あなたは、弱い』

 不意に思い出した夢の中のもう一つの言葉で、意気込んで握った手から力が抜けていく。

「……そんなこと」
――知っているよ。

 自覚しているのと、それを誰かに指摘されるのとでは落ち込み具合はかなり違う。たとえ夢の中でも、痛い所をつかれるようなことばかり言われて自覚して、しえみが落ち込まないわけがなかった。

「何ぶつぶつ言ってんだ?」
「り、燐!?」

 不意に降ってきた声。聞きなれた声に慌ててしえみが振り向くとふわふわと揺れ動く茶色の段ボールがまず目に入ってきた。数にして3つもあり、不安定に持ち上げられて運ばれている。一見すると、その段ボールに足が生えているようだった。

「……燐?」
「よ」 

 なんとかその脇から燐は顔を出してしえみに笑いかけた。隣に並んで歩き始めると、段ボール一つが余裕で燐の頭の上まで積み上げられていることにしえみは気付いた。

「すごい荷物……。これどうしたの?」

――やっぱり男の子って力持ちなんだ……。

 見るからに重そうな段ボールを燐は軽々と持ち上げていた。
  同じことを子猫丸にやれと言ったら間違いなく無理なのだろうが、しえみはそれには気付かず燐に尊敬のまなざしを送っていた。

「次の授業で使う資料やら薬草だからって雪男が持ってけって」
『しえみー』

 使い魔の黒猫が燐の後ろからひょいと二人の間に入ってきた。甘えるようにしえみの傍に寄ってくる。

「こんにちわ、クロ」

 挨拶をすると親愛を表現するようにしえみの足にすり寄ってきた。さらさらとした毛並みがしえみにはくすぐったかった。

「燐。わたし荷物運ぶの手伝うよ。そのままだとあんまり前が見えないでしょ」

 燐が持っている段ボールは重そうで、その上燐の視界をふさいでいた。持ててもこのままだと誰かにぶつかってしまうかもしれない。そんな気持ちからしえみは言い出していた。

「こ、これくらい俺一人で十分だって。それにこれ結構重いし」

 差しのばそうとしていた手はぴたりと止まった。そのまますっと、元の位置に手を戻した。ちくり、としえみの胸に痛みが走った。

「……そう」
「あ、代わりに教室の扉あけてくれねえかな。この通り両手がふさがっているからさ」





 授業が始まるよりずいぶん前についた教室には誰もいなかった。教員机のとなりに段ボールを積み上げて燐は一息ついた。しえみも自分の荷物をいつも座っている席に

「それで」
「え?」
「どうした? 何か悩み事か?」
「ど、どうして?」
「なんか元気ねえじゃん。さっきだってすっごい思い詰めた顔してたぞ」

 心配そうに燐はしえみ顔をのぞき込んで尋ねた。ちくりとまたしえみの胸が痛んだ。

――わたしなんかより燐の方がずっと大変なのに。

 燐は自分が沢山問題を抱えているのに、そんなことを周りには感じさせずにいつも笑顔でいる。自分よりも周りを気遣っている。
  そんな燐をいつもしえみは尊敬していた。

――どうして燐はそんなに優しいんだろう。強いんだろう。

 置いて行かれそうで怖い。なんて思いをずっと抱えていたと伝えたら燐はどんな顔をするだろうか。「そんなことない。しえみなら大丈夫だ」と言うかもしれないし、「俺に関わると危ないから」と言って遠ざけるかもしれない。

「な、何でもないの。ただちょっと最近悪い夢を見ていて眠れなくって」

 言えなかった。
  言えるはずがなかった。
  言いたくなかった。

 しえみは燐に心配をかけたくなかった。

「悪い夢?」

 怖い夢を見ているのは本当だから、嘘じゃない。そう自分に言い聞かせてしえみは続けた。

「よく覚えていないんだけれど、とても怖い夢、だった気がする……かな。あ、でもそんな心配することじゃないんだよ! 最近実戦演習が多いからきっとそのせいだと思う」

 実戦演習が最近増えているのも本当のことだった。その演習で自分の未熟さや弱さを自覚することだって多かった。

――でも、本当にそうなのかな?

「しえみ?」

 知らず知らず視線を落としてぼんやりとしていたしえみは、名前を呼ばれて反射的に顔を上げていた。その先にはやっぱり心配そうにしえみの様子を伺っている燐がいた。

「だから! ……燐はそんなに気にしなくても大丈夫だよ。だってただの夢なんだもん」

 あははは。と、暗くなっていた声をしえみはごまかして笑った。そうやって笑いながらしえみは燐の目をまっすぐ見ることができなかった。

――そうだよ。あれはただの夢だよ。

 しえみが誤魔化すように笑っている間も、怪訝そうに燐は眉間にしわを寄せていた。




 塾から家に帰って、しえみは母に変わって店番をすることになった。番頭に立ちながらのらりくらりと過ごしていると今日は客入りもなくあっという間に外は暗くなっていった。
  しとしとと降り始めた雨音が、余計にしえみの気分を陰鬱なものにしていく。

――今日、お母さんは帰ってこない。

  しえみの母は薬草の仕入れで明日まで家を留守にする。別に今までで何度もそういった仕入れはあったし、家で一人で過ごしたこともしえみは慣れている。けれど、どうしてか今日だけはひとりぼっちの夜が来ることをしえみはずっと恐れていた。

――もう夜だ。

  ニーちゃんを呼び出したかったけれど、不安に揺れている精神状態じゃ使い魔を呼び出すことは危険だ。だからしえみは緑男の幼体を呼べない。
  店の時計を見上げてしえみは時間を確認した。もうすぐお店を閉める時間になる。店じまいをして、お風呂に入って、そして眠らないといけない。そう考えてしえみは少し身震いをした。

――またあの夢を見るのかな。

  いつから見るようになったのか、正確にはしえみは把握していない。

  最初は、「怖い夢を見た」程度だった。
  それが、「昨日と同じ夢を見ている」「今日も同じ夢……」に時間をかけて変わっていった。
  どうしてそんな夢を見るようになったのかは、しえみにはわからない。けれども、夢の中で感じるものはずっと気にしていたことだった。置いて行かれる怖さも 不安も自分のふがいなさも、祓魔師候補生になってから何度もしえみは感じていた。だから、こんな夢を見るのだと、しえみは思っていた。

  夜が怖かった。眠ることが怖かった。また同じ夢を見て、今度も誘惑する手を取らないとも限らない自分が、怖かった。

――どうしたらいいの?

  こんな時、おばあちゃんがいたら一緒に眠ってくれたかもしれない。けれど、今この家にしえみがすがれる人は誰もいなかった。



  もう店を閉めようと、幾つかの商品を奥へ片付け始めた時だった。
  ぎぃ、と店の入り口の扉が音を立てた。

「い、いらっしゃいませ!」

  慌てて入口に向き直りお辞儀をして顔を上げた先に、予想しない客が立っているのを見てしえみは目を丸くした。

「燐?」
「よお」
「どうしたの? 燐が来るなんて珍しい……」

  よく来るのは弟の雪男の方だった。しかし、今日は燐、一人だけの来店だった。

「まあな」

  店の中の商品にはあまり目もくれず、燐はしえみの前までまっすぐ歩いてきた。そして、すっと差し出された燐の手に、思わず受け取るようにしえみは手を差し出していた。
  しえみの手のひらに軽く置かれたものは、緑色でとても小さかった。

「これ……」
「四つ葉のクローバー。魔除けになるんだろ。最近眠れないならコレを枕元に置いて寝てみろよ」
「もしかしてわざわざこれを届けに来てくれたの?」
「た、たまたまだ! たまたま! 帰り歩いていたら見つけてよ。そーしたら、じじいが魔除けになるって言ってたの思い出して、悪い夢とかもどーにかなんじゃねえかって思って」

  燐は顔を赤くしてそっぽを向きながら早口でまくしたてていた。照れ隠しのように頬をかいて、その右手が少し土で汚れているのに、しえみはすぐに気がついた。そう言えば雨に少し濡れている。傘もささずにしえみを訪ねてきたのだろう。
  ぽたりと、涙が頬を伝った。

「……ありがと。ありがとう、燐」
「ど、どどどうしたんだ? 俺、泣くようなことしたか?」
「ううん。違うの。とても、とても嬉しくて――」

  かぶりを振ってしえみは笑った。とても嬉しそうに。

「本当にありがとう。燐」

  照れを誤魔化すように燐は赤くなった顔を明後日の方向に向けていた。

「お、おう」

  受け取った四つ葉は小さかったけれど、とても暖かかった。それだけで、しえみはさっきまで心を占めていた心細さが消えていくのを感じていた。




 遠ざかっていく背中はもう見えなくなり、しえみは暗闇の中に一人取り残されていた。息が切れて走れなくなって、しえみは二人がいなくなった方向に視線を走らせた。もうどんなに走っても二人の姿は見えてこない。不安がしえみの胸に押し寄せた。

『しえみ』

  こぼれそうな涙を我慢していると、声が聞こえた。とても小さな声だけれど、はっきりとしえみの耳に届いていた。ふわふわとどこからともなく光がしえみの前に降りてきた。
  小さなクローバーは淡い光に包まれて宙に漂っていた。

――これって、燐がくれたクローバー?

  触れるとクローバーはしえみの手の中に収まった。声はもう一度聞こえなかったけれど、このクローバーから聞こえてきたとしえみにはわかった。聞こえてきた声が、燐の声だった。
  手にしているだけでさっきまでしえみの胸を占めていた息苦しさは消えていた。

「置いて行かれたくはないでしょう?」

  いつものように降ってくる声。何度も聞いた声だった。
  その言葉はそのまましえみの不安を代弁していた。しえみの、燐と雪男に感じている、取り残される不安を。

「あなたは弱い。彼らにこのままでは追いつけない」

  その言葉は真実で、言葉はそのまましえみの心を抉っていた。クローバーの光がしえみに温かみをくれたけれど、言葉自体が持つ鋭さはごまかせない。痛みを感じながらも、もう一度二人の背中が消えた暗闇にしえみは視線を向けた。

  追いかけることをやめた訳じゃない。
  追いつけないことを嘆くこともやめた訳じゃない。

「ボクならあなたの望みを叶えられます。力が欲しくはありませんか」

  暗闇から手が差し出されてきた。そう、ひじから手までの部分だけが暗闇から差し出されていた。
  言葉の通り、この手を掴めば二人を助けられるのかもしれない。しえみにとっては、耐えがたい誘惑だった。昨日の夜までは。
  しえみはその手と、その手を指しのばしている誰かを暗闇の中に見据えて、静かに首を横に振った。少しだけ、動揺するようにその手が揺れた気がした。

「ごめんなさい。あなたの手はとれないの」

  力がいらない。とは言わなかった。しえみも力が欲しいのは本当だったから。けれども、こんな形で力を手に入れたい訳じゃない。




  今までの夢の中の逢瀬で、一番はっきりとしたしえみの言葉だった。
  しえみ側からアマイモンの姿は見えないと言うのに、彼女の目線はしっかりと暗闇の中のアマイモンをとらえているようだった。暗闇を見つめているというのに、その視線に怯えも迷いもない。

――昨日と違う。

  瞳には確かに力強さがあった。昨日までのしえみには見られなかった光だった。

「あなたの言う通りだと思う。わたしは弱くて誰かに助けられてばかりだよ。燐や雪ちゃんに置いて行かれるって、頑張っても追いつけないんじゃないかってずっと怯えていた」
「それならどうして、この手を取らないんですか」

  そもそも気が長い方じゃないアマイモンは不満そうに頷かない娘と対峙していた。そして、僅かに感じる魔除けの気配にいらだってもいた。気付かれたのだと一瞬考えたが、そもそも自分の手によるものだとわかっていたら、こんな拙い魔除けを相手が用意するはずがない。

「ボクの力を借りればあなたは置いていかれずにすむ」

  差し出された手をしえみは拒むようにもう一度首を横に振った。首を横に振る――拒絶する。それまでは今までの夢の中でも同じだった。夢で逢った時から、し えみは怯えるように首を横に振ってこの手を拒んでいた。それも何度か繰り返すうちにその拒絶も弱くなってきて、手に対する距離も短くなってきていた、はず だった。あのまま続けば、今晩にでもしえみはアマイモンの手を掴んでいてもおかしくなかった。

――何かが変わった?

  今日の夢の中のしえみには怯えは見られなかった。それに拒絶というよりかは、静かにアマイモンの申し出を断るような印象すらある。これまでの夢の中では見られなかった落ち着きようが、アマイモンには理解できなかった。

「そうだね。きっとあなたの力を借りればきっと二人の力にもなれる。助けられる」
「それならどうして」

  尋ねながら、アマイモンはしえみが手を取らないと予感していた。悪魔が付け入る不安が今の彼女には見られない。

「いつの間にかわたし、一人で頑張ろうとしていた。焦ってばっかで助けも求めちゃいけないって。でも違うんだよ。祓魔師は一人で戦うんじゃないって、雪ちゃんが何度も言っていたことをわたし、忘れちゃってた」

  四つ葉のまじないがしえみのそばで小さく光輝いているのが嫌でもアマイモンの目に入った。おそらくしえみが立ち直った原因の一つだろう。しえみの心はその四つ葉のクローバーに支えられているようだった。正確にはその四つ葉を贈った相手に。

「わたしはまだ頑張れる。今、ここであなたの手を取ったらきっとわたしは頑張れなくなっちゃうの。わたしを支えてくれてる人達に笑顔で会えなくなっちゃうの」

  ヒマワリが咲くように、しえみは満面の笑顔を浮かべた。

「わたしがわたしを信じられなくても、燐や雪ちゃん、みんなが支えてくれているわたしを、わたしが信じたいの」

  アマイモンは差し伸べていた手を下した。
  どうやら、付けいれそうなしえみの心の隙間はいつの間にかなくなってしまったらしい。





 実際に付け入る心の隙があるからと、手を出してみたのだが――。

「失敗してしまいましたか」

  他人事のように呟いて、アマイモンは空を見上げた。
  いつの間にか雨が上がり、紺の天蓋に星々が瞬いている。その脳裏に夢の中で自分に向けられたしえみの笑顔が浮かんだ。あまり自分にむけられない表情を、一 瞬とは言え何も考えずにアマイモンは魅入っていた。その後は早々に夢から引き揚げた為に、その後どんな夢をしえみが見ているのかは知らない。

  付け入るのに失敗はしたが、それほどアマイモンは機嫌が悪くなかった。


  それがどうしてなのかは、まだ自分でもわからなかった。