そもそもの始まりがいつ終わってしまったのかはわからない。
好意であれ、悪意であれ、それでもない無関心であれ、あの娘を知るきっかけになったのは唐突な兄の呼び出しであった。
上位の悪魔に従わない悪魔はいない。それは上位悪魔である自分も例外でなく、また特に断る理由もなかったのでその呼び出しに応じた。
その兄が用意した箱庭の中で、決められた物語は、兄が決めた範囲内で自分の興じていた遊びは終わらせられた。ようやくこれからが面白いと思った矢先の、唐突に放り出された暗闇。兄の都合主義とは言え流石に――この時ばかりは怒りを感じた。
少し時間が経ってから、聖十字学園に以前と同じように自由に行き来はできるようになった。自分がどこに出かけようと、学園内にいようといまいと、兄は自分が決めたルールを破らなければ、何も言わない。気にも留めない。
――そのはずだった。
ある夕方だった。外を一回りして、食べたいものを好きなだけ食べて――この国の食べ物の種類の豊富さは未だアマイモンに飽きさせるということをさせない――、それでも食べきれなかった様々な種類の大判焼きを大量に抱えながら理事長室に帰ってきた。
応接用の机の上にそれらを置いて、アマイモンは続きを食べ始めた。その主人にならうように、足元で付き添っているベヒモスも机の上からこぼれそうになっている大判焼きに手を伸ばす。そのベヒモスが手を伸ばした先の大判焼きを、空いた手でアマイモンが素早く奪った。
「ハンバーグ味はまだ食べていません」
それが、ピラミッドの一角を見事に崩す結果になった。
そのハンバーグ味の大判焼きは、その大判焼きの山を一点で支えていたものだったから。唐突にそれは訪れず、少しばかりゆっくりだった。ゆっくりと、ひとかけらがベヒモスの頭の上にぽふんと落ち、一つ、一つ、二つ、四つ、七つと、途中から壮大な雪崩となってあっという間にベヒモスは大判焼きに埋もれて行った。わずかに、床にできた山が震えている。
が、そんなことに気を止めないのもベヒモスの主人だった。机の上に残っている大判焼きをなんのためらいもなく口に運んで行き実に満足そうだった。
「ん? なんでしょうこれは」
机の上の大判焼きを食べ終わって、床の上の山から一つ口に放り込みながら、そもそもその大判焼きの下敷きになっていたモノにようやく気付くことになった。
「これは……見覚えがありますね。こちらは奥村燐、それと――」
大判焼きの下敷きになっていたのは祓魔塾のクラスの名簿だ。それも写真と名前が一緒になっている。
いくつかの見覚えのある顔と、その下に書かれている名前。そもそもアマイモンは奥村燐とその弟以外の名前はほとんど知らない。
がちゃりと、音を立てて扉が開かれた。
「杜山しえみ」
そんな名前だったのか。と認識を新たにしてアマイモンは振り返った。ちょうど扉を開いて入ってきた兄が何故か奇妙な顔をしていた。驚く様な、引きつっているようにも見える顔だった。あえて言うならば、それはとても珍しいものだった。
「……えみ。しえみ。杜山しえみ……」
「さっきから何をぶつくさ言っているんだ」
「はぁ、名前です」
「それは聞いていればわかる」
――だから、なぜその名前だというんだ。
気にしていないように装いながら、ちらりとアマイモンに視線を送る。
虚空を見つめながら無心でメフィストが用意した菓子をほおばっている。いつも通りと何も変わらないように見える。何度注意しているにも関わらず、カーペットに食べかすが落ちているのもいつも通りだ。メフィストにとっては腹立たしいが。
「言っておくが私の生徒を殺すなよ。殺したら――」
「兄上にボクが殺されるんですよね」
「わかっているならいい」
手元にある報告書にメフィストは視線を落とした。しばらくは資料をめくる音と、弟が菓子を咀嚼する音だけが部屋に響いていた。しかし、ある一定の時間を過ぎると、また弟が思い出したように小さくその名前を呟き始めた。
――だから、なんでその名前をお前は呟くんだ。
それが珍しいものであるように、人間の子供が覚えたての言葉を忘れないように一生懸命呟くのと同じように。
弟からが小さく呟くその名前に、メフィストはもう一度突っ込む気も起きずただ眉間にしわを寄せていた。
兄があまりにも苦々しい顔をするものだから、からかって名前を呟いてみてみた。それがどうも楽しくて繰り返していると、なぜそんな顔を兄がするのかと、次に疑問がわいてくる。
――当分はこれで我慢するとしますか。
遊びを邪魔された意趣返し――のつもりで、あの娘の名前を呟くことを始めてみた。それが思いの他面白くてやめられない。
――大体どうしてそんな顔を兄上がするんでしょうか。あの娘とボクにはそこまでの関わりあいなどないというのに。
主に関わっていたのは奥村燐だ。その燐に連れられるようにして杜山しえみが事件に巻き込まれる形となった。その事件の記憶を杜山しえみは持ち合わせていないのだから、そもそもしえみとの関わりなど始まってすらいない。その始まってすらいないことをどうして兄が気にするのか――。
「本当に不思議だ。そうですよね、ベヒモス」
理解できない、と言いながらも、この日もアマイモンは兄をからかうという名目で、その娘の名前を呟いていた。
すっかりその名前を覚えてしまった、という事実に気付かないまま。
甘さなんて欠片もねぇ! と言えるような何だよ、コレアマしえなの一応? 的な話です。大判焼きのハンバーグ味は見つけた時こんな味があるのかと衝撃でした。
ぴくしぶで書いた小話の拡大版。前後をちょいとプラス。