終わりある終わりなき永劫の回路


「っ! どうして……? どうして連れていってくれないの!?」
「できるわけないだろ……。おまえ、何を言っているのかわかってんのか!?」
「わかっているよ! わかって言ってる! 燐を独りにしたくないの。だから、わたし!!」

  乾いた音が響いた。痛む頬に手を添えて、呆然と燐を見上げる。
  苦々しく顔を歪めて、燐はしえみを見ていた。しえみを叩いた手がいやに熱かった。強く握りしめて、震えを押し殺して、燐はそれをゆっくりと下におろす。

「……あたま冷やせ。バカなこと、言うんじゃねぇ」

  その先を言わせないために叩いたことを悔いるように、しえみから燐は視線を外した。その様子が、一連のしえみの言葉を否定していることは明白だった。

「……っ」

  しえみはこぼれ落ちそうになる涙をこらえていた。けれども、一筋、頬を涙が伝う。いつもなら慰めてくれる燐は、この時ばかりはしえみに手を伸ばさなかった。そうしてどれだけ二人は黙って小さな部屋に一緒にいただろう。不意に携帯の音がなった。

「……はい。奥村燐です。はい。……わかりました」

  電話に向かって繰り返される短い応対。その様子から、祓魔師関係の電話だと容易にしえみには想像がついた。電話を切って、一度ちらりとしえみに視線を向けた。けれども、それだけで。

「任務だ。俺、行ってくるわ」

  くるりと、燐が背を向ける。その背を、しえみは唇をかみしめて見ていた。

――燐……、燐。

  言葉に出さずしえみは心の中で燐の名前を呼んだ。けれども、燐は最後までしえみに触れずに静かに部屋を出ていった。
  一人になった控え室でしえみは地面にへたりこんだ。叩かれた頬はあまり痛みは感じない。けれども、燐に叩かれたということがしえみの心にぐさりと突き刺 さっていた。我慢していた涙が溢れていく。地面と服に水玉がおちて模様を描いていくのを、しえみは止めることができなかった。
  拒まれることはしえみにはわかっていた。怒られることも、燐の言い分が正しいことも、自分の言い出したことが間違っていることも。けれどもその言い出したことは、決して軽い気持ちで言った訳じゃない。
  遠くない未来、燐はみんなに置いて行かれて独りになる。そう思うとしえみはいても立ってもいられなかった。大切な人を失う哀しみは十分、しえみは知っていたから。その時に支えてくれる人がいないなんて、どれだけ苦しくて寂しいんだろうって。
  どうしたらいいか何度も考えても答えがでなくて、どうしたら燐が寂しい思いをしないですむか何度も考えて――たどり着いてしまった結論。すぐには言わなかった。間違っている、と自分でも思ってしまったから。

――でも、わたし……。どんなに間違っていたとしても燐を独りにしたくないの。わたしの身勝手な想いだってわかっていても。

  そして、この日。控え室でたまたま二人っきりになった時、しえみは切り出した。自分がずっと抱えていた想いを口にする。

『ねぇ、燐……。燐なら、わたしを悪魔にできる……?』

  しえみは忘れられない。そう言った時の、燐の表情が。驚きに満ち、しえみが何を言っているのか理解していなかった。そして、はっきりとした拒絶。その様子は怯えにも似ていた。




 なぜか来るだろうと、しえみにはわかっていた。
 月明かりに照らされるように木陰から姿を現したのは、一度見たらそうそう忘れられないとんがり頭の彼。

「アマイモンさん」

 その人の――悪魔の名前を呼んで、しえみは微笑んだ。もっともその間も相手は何を考えているのかわからない無表情を浮かべている。
  いつからかしえみはアマイモンを恐れることなく相対するようになっていた。最初の出会いは最悪で、その後の出会いも良いとは言えなかったが、いつの間にか顔なじみになってしまっていた。自分の使い魔のニーちゃんと関係のある悪魔だということも、慣れ親しんでしまった要因の一つだろう。

「杜山しえみ。迎えに来ました。あなたは確かにボクを呼んだ」

 正確には、実際に呼んだのではない。しえみの使い魔の緑男を媒介に、しえみの願いをアマイモンは知ることになった。人の願いを叶え、心に付け入るのが悪魔の本分だ。アマイモンにとってもそれは例外ではなく、少なくとも興味を持っている相手を見過ごすはずもなかった。

「あなたは、連れていってくれるの?」
「ボクの望みでもあります。喜んで」

――燐が、こんなことを望んでいないことはわかっている。

 いつからか燐は成長しなくなった。その時期は曖昧だが、少なくともしえみが会ったときから燐は変わらない姿をしている。それが、しえみは怖かった。悪魔の寿命はわからない。けれども、人間よりずっとずっと長いことだけはしえみも知っている。いずれ時間が過ぎ去った時に燐を知っている人が一人もいなくなってしまうこと、燐を独りにしてしまうことがしえみにはとても苦しかった。

「わたし、燐のことが好きなの。だから、例え嫌われるとわかっていても、この先燐を独りにしたくない」

 燐に拒まれた想いをしえみは告げていた。燐に拒まれたことで、逆にしえみには決心がついてしまった。

「あなたの望みは悪魔になり、未来永劫、奥村燐を独りにしないこと……」

 少しだけアマイモンの胸に痛みが走ったが、それを表情には出さず続けた。

「しかし、ボクと契約したなら当分その奥村燐とも自由に会えなくなります。悪魔になったあかつきには、虚無界へ下り、ボクの眷属となり、ボクを助け、つくさなければならない。物質界の太陽とも長い間別れることになります。いいのですか」

 おかしなものだ。契約を望んでいる相手に、わざわざ断るような動機を与えるように説明してしまうなんて。兄の紳士的教育がいくらか余計な邪魔をしているのは間違いない。

「構いません」

 しかし、これだけ不利な条件を突きつけてもしえみは首を横には振らなかった。その様子に少しだけアマイモンの胸は高揚した。

「ならば手を」

 ダンスの手をさしのべるように、手のひらを上にアマイモンはしえみに手を差し出した。その手に、しえみの小さな手がゆっくりと重ねられる。その手を、壊さないようにわずかにアマイモンは握り返した。

「いくらかの心の自由と行動の自由をしえみに認めましょう。あなたの願いは、叶えられるでしょう。しかし、あなたはこれからボクの花嫁になる。好意を抱くのは構わない。けれども、愛は――ボク一人に誓わなければならない。それでもいいのですか」

 最後の通告。戻るならこの時が最後だと、アマイモンはしえみを見つめながら、ゆっくりと告げた。

「……はい。あなたと一生沿い遂げることを誓います」
――わたしは、燐を少しでも孤独から遠ざけることができるなら何だってできる。

 その姿勢が他でもない奥村燐に対する愛によるものだとしえみは気付いていない。そんなしえみにアマイモンは額に触れるだけのキスを落としたが、しえみは拒まなかった。

 

 

 祓魔師の任務中で杜山しえみが死んだ。
 そう燐に知らされたのは燐がしえみと最後に会ってから一週間後のことだった。

 

 

 理事長室に現れた二人はこれから旅立ちだというのに手荷物一つ持っていなかった。そもそも悪魔に荷物などあまり意味がなく、必要もない。

「面倒な手順を踏んでもらいご苦労様です。これで晴れてあなたも悪魔の仲間入りです」
「かくまってもらいありがとうございます」

 しえみはメフィストに頭を下げて礼を述べた。わずかにのぞく八重歯と、少しだけとがり始めた爪。完全な悪魔堕ちにはほど遠いが、変化が始まっているのは見て取れる。

「親しい人間の死にぎわには時期を教えて差し上げます。それまでは虚無界に慣れていてください。一巡すれば、ここに戻ってきても違和感なく聖十字騎士団にいられるでしょう」
――まぁ、それまであなたが祓魔師の志をなくさなければ、ですが。

 一巡、というのは知り合いがすべていなくなることを指してメフィストは言っていた。はい。と短くしえみは返事をする。
  扉を開き、その先に姿を消した二人を見送り、用意していた紅茶に口を付けてメフィストはため息をついた。

――全く奇妙なことになったものだな。

 今頃、彼女の仲間たちは空っぽの棺の前で涙を流している。遺体は悪魔に食われて残されていないことになっているから、不審な点は何もない。遺体が残っていない葬儀など、祓魔師にはよくあることだから。

――だまされたとも知らないで愚かなことだ。

 もしくは、あの棺は、人間としてのしえみの墓標としては正しいのかもしれない。
  仮に燐がしえみを悪魔に導いていたなら、こうはならなかっただろう。周りに批判はされ、例えこの聖十字騎士団から追放されたとしても、二人は一緒にいられたはずだった。

 今頃、怒りにくれているのだろうか。
  今頃、悲しみにくれているのだろうか。

 その引き金を引いたのは紛れもなく燐であったのに、それすら気付けないとは哀れで仕方がなかった。何のためにしえみがいなくなったのかも、時間をかけないとわからないのだろう。今はいい。悲しみを分かちあう仲間がそばにいるのだから。

――私としては自己犠牲が甚だしくて理解に苦しみますが、時折人間はこのような行動をとる。それが面白い。

 たとえ燐の近くで沿い遂げられないとわかっていても、永遠の孤独を癒したいが為にしえみは人間としての生を対価に悪魔へと堕ちた。始めこそ驚いたが、彼女が持つ人を想う心をもってすれば想定できない選択でもない。その選択が本当に燐の孤独を癒せるのかも未知数だ。

――真実をすぐさま教えられないのは残念だが、それは後々の楽しみにでもとっておくか。

 ラングドシャーを口に放りこんで、外に目を向けると追悼の煙が上がっていた。旅立ちの日が葬儀の日と重なるなんて、最高の皮肉のように思えてメフィストは口元を歪めた。