終わりある終わりなき永劫の回路 02


 この日がちょうどあの日から三回忌だった。兄は一足先にここに来たのか、淡泊な白石の墓標には鮮やかな花束がすでに手向けられている。他の祓魔師仲間もすでに訪れた後のようだった。花束以外にも様々な贈り物が置かれている。
  昨日からの任務が終わってから花屋に立ち寄り、色合いの良い花束を選んでいたら、天蓋は紺の帳が下ろされていた。

「遅くなってすみません」

 そう言って雪男はそれらの贈り物の隣に、自分が用意したひまわりの花束を添えた。しゃがみ、胸の前で手を重ね、目を閉じ黙祷を捧げる。しばらくしてから顔を上げて、墓標に向かって何か言葉を送ろうとしたが、雪男は何も言えなかった。
  未だに雪男の中で、しえみの死は整理がつかなかった。
  知らせは突然すぎて、哀しみをはっきりと感じる間もなく葬儀は執り行われ――、ここにしえみは眠っていることになっている。遺体が何一つ残されていないというのに。だからだろう。雪男は墓標に語る言葉をまだ持てなかった。胸の奥のざわつきが消えるまで、ただじっと墓標の前に立ち尽くすことしかできなかった。脳裏にはまだ、しえみの笑顔が残っていた。その笑顔で、親しげに彼女は雪男の名前を呼んでいた。
  脳裏に焼き付いている姿が色あせないことだけが、救いのようだった。

「……雪ちゃん?」

 幻聴、だと思った。けれど、その声は小さくても確かに大気を振るわせていて、聞き覚えがあって――。そんな呼び方をする相手は一人しか雪男には覚えがなかった。ゆっくりと振り返ると、着物を着た女性が月明かりに照らされるように立っていた。その姿は3年前と何も変わっていなかった。

「しえみ……さん?」

 目と目が合った瞬間、女性は気付いたように口に手を当てた。言葉をこぼしてしまったことがいけないことだとばかりに。その際揺れたその体に、一見しただけでは気付けなかった透明な羽があることに、雪男は気付いた。透明で透き通った、蝶の羽と同じ形をした羽が。少なくとも、人間ならば持つはずのない羽が。
  その羽に雪男の視線は釘付けになっていた。視線に気付いて女性はその羽を見えないように背中に隠したが、それは意味をなさなかった。

「……本当に、しえみ、さん?」

 女性は首を縦に振らなかったが、横にも振らなかった。けれども、月明かりが照らす女性の顔は紛れもなく3年前に死んだはずの杜山しえみだった。
  一歩、女性に向かって雪男は踏み出した。その分だけ、女性は後ずさりをする。二歩目も似たような感じになった。見えない壁があるようだった。そして、それが雪男に確信をさせた。

「しえみさん、なんですね」

 確信すると同時に困惑も雪男の中に沸き上がってくる。それは、目の前の女性が杜山しえみではあってはならないからだった。本来なら死んでいなければならないはずの人間が、姿形を変えて目の前にいるという意味を、雪男は理解したくなかった。

 どうして、あなたがここにいるんですか。
  どうして、あなたは生きているんですか。
  どうして、あなたの姿は――悪魔のようになっているんですか。

――そんなことがあっていいはずがない。

 不意に、彼女の死には不審な点がいくつもあったことを雪男は思い返していた。想定外の悪魔の出現。熟練になっているはずの彼女自身の不審な行動。深い捜索も行われず執り行われた葬儀。
  合致していくいくつかの条件と、それによって導かれる一つの予想。女性の髪からのぞく耳の先は尖っているようにみえ、無意識に雪男は腰のホルスターに手を伸ばしていた。

「どうして、あなたが……?」

 雪男が銃を掴んだのと、周囲の空気が変わったのはほぼ同時だった。直後に響いた銃声は、弾かれ地面に転がった拳銃からあがったものだった。

「やめて! その人は敵じゃないの!」

 とっさに女性が叫ばなければ、地面から幾重にも伸びた土くれの槍が雪男を貫いていただろう。言葉と同時にそれは止まったが、まだ警戒を解いていないのか元に戻る気配もない。身動きがとれないまま、雪男はもう一度女性を見た。
  女性は涙をこらえるように口を真一文字に結んでいた。

「雪ちゃん。ごめんなさい……」

 謝罪の言葉をこぼして、女性は森の中に姿を消した。その姿が見えなくなるのと同時に、土くれの刃は地面に戻った。




 明日の朝に提出しても遅くはない報告書を携えて、夜分遅く雪男は聖十字学園の理事長室を訪ねていた。メフィストに会って、簡単な任務の報告をすませた後、すぐに本題を雪男は切り出した。

「知って、おられたのですか。彼女のこと」
「はて? 何のことでしょう?」
「とぼけないで下さい。杜山しえみのことです。あなたは知っていたんじゃないですか。彼女が生きていることも、悪魔になってしまったことも」

 しえみの死がスムーズに偽装工作されるには、騎士団内に協力者が不可欠だった。それも上層部といくらかパイプと影響力のある存在が。そう考えた時、雪男がまっさきに思いついたのがメフィストだった。
  理事長室を訪ねる口実があったことは幸運だった。

――しらばっくれるのなら、それでもいい。何かしらしっぽを掴んでやる。

 睨むように雪男が言葉を待っていると、底意地の悪そうな笑みをメフィストは浮かべた。

「ははあ、会ったんですね。知っていましたよ。それが、何か?」

 あっさりと認められ一瞬頭に血がのぼりそうになったが、雪男はきわめて冷静に言葉を紡いだ。

「悪魔堕ちをなぜ隠していらしたんです。いや、それよりどうして死んだなんて嘘を」
「嘘じゃありません。実際、彼女の人間としての生はあの日で終わったのですから。3年前になりますか、彼女が自ら悪魔になりたいと願ったのは。その願いを地の王が聞き入れた」

 実を言うと、悪魔になりたいという願いを叶えられる人間は珍しい。望んだところで、手引きをする悪魔側が認めない場合が多いからだ。今回のケースは互いに望んだ結果だった。
  そんな話は初耳だった。しえみが悪魔になりたいと望んでいるようなそぶりは見たことがない。それに話に出てきた地の王――。因縁がない相手じゃない。けれども、だからといってしえみがそんな願いを彼に願うだろうか。

「……どうして」

 メフィストが語っているのはおそらく事実なのだろう。ただし、その話の中には理由だけが欠如していた。わざと話していないような意図すら感じるほどに。

「それは私にもわかりかねます。詳しい事情は一切話していただいていないので。彼女に会ったのでしょう。どうしてか聞けばいいじゃないですか。それと、私が隠していた理由は至極簡単です。彼女は私から見て義妹になる。身内を守ろうとするのは当然でしょう」

 いけしゃあしゃあと紳士的な笑みも崩さず、メフィストはすらすらと答えた。一方雪男には眉間にしわがよるばかりだ。そもそもメフィストに親族の情などあるように雪男には思えない。

「名誉騎士殿は公私混同はしないのではなかったのですか」
「彼女は今や地の王の眷属であり、妻。その身はおいそれと私が手を出せるものじゃないんですよ。なんせ彼女が契約した相手が悪すぎました。それに、彼女が人間に害を及ぼさない確証はありましたしね」
「確証とは?」
「彼女の身は虚無界にある。物質界に姿を現すことはないかと思っていました」

 少なくともあなた達が生きている間は。と胸中で軽くメフィストは付け加えた。

「それとも、あなたは自分の手で彼女を祓いたかったのですかな?」
「え……」

 祓う。
  その言葉に、雪男の思考が停止した。

「聖十字騎士団としては、悪魔堕ちした祓魔師を見過ごすわけにはいかない。そうですよね。運良くか運悪くか奥村あなたは知ってしまった。これからどうするつもりですか?」
「それ……は」

 模範解答はのどの奥にこびりついて出てはこなかった。反射的に銃を向けておきながら、その先のことを何か考えて雪男はここに来たわけではなかった。
  真実を知りたかった。ただそれだけで。

「私としては黙っていても一向に構わない。でーすーがー、あなたが他の誰かにこのことを言うつもりなら対応は変えなければならない。何事にもけじめが必要ですからね」

 口元に笑みを絶やさずメフィストはそう告げた。