終わりある終わりなき永劫の回路 03


「そういえば、あの日から三年が経ったんですね」

 今日がその日だったと、兄からのメールを見てアマイモンは思い出したように告げた。緑男や山魅に囲まれて、一心不乱に、色とりどりの植物の手入れをしていたしえみは何を言われたのかわからず、ぽかんとアマイモンを見上げていた。

「え、ええええっ! そ、そんなに!?」

 しばらく沈黙した後、しえみは言われたことをようやく理解した。理解はしたけれど、信じられないのかしえみは作業の手を止めて目を瞬かせている。
  しえみの姿は、背中に蝶のような羽が生えたり、爪や耳が尖ったり、といった一定の悪魔化を終えた以降は、変化をしていない。髪が伸びることもなければ、年ももちろん取らなくなった。
  それに虚無界には四季の変化なんてものはない上に、日の出、日没がはっきりしている物質界に比べれば一日の時間の流れさえ不明瞭だった。時間の感覚がよくわからないから、誕生日のような記念日すら祝ったことがなかった。だから、完全にしえみの時間感覚は麻痺していたのだ。本人にしてみれば1年くらい経ったかな、程度だった。
  アマイモンからしてみれば物質界の3年くらい大した時間ではない。けれども、人としての感覚が捨てきれないしえみにしてみれば、長い時間があっという間に過ぎたことへ驚きを捨てきれなかった。

「3年……、もう3年も経ったんだ」
――みんなどうしているかな……。

 3年経ったと言われてしえみが真っ先に思い出したのは祓魔塾で同じく勉強を共にした祓魔師の仲間達だった。3年程度じゃ姿もあんまり変わっていないかもしれないけれど、今頃どうしているのかが気になった。燐の顔が真っ先に浮かんで、喧嘩別れしたまんまだったことを思い出して、罪悪感に胸が痛む。

――燐はきっと怒っているよね。

『しえみ? 苦しいの?』

 下を見ると、使い魔の緑男が袖を引っ張っていた。

「大丈夫だよ、ニーちゃん。みんなのこと思い出してちょっと懐かしくなっちゃっただけ。怪我とかしないで元気にしているといいなあ」

 それに、自分があっちでは死んだことになっていることも思い出した。アマイモンと契約してから、すぐに虚無界に来てしまったから、向こうの詳しいことをしえみは何もわからない。気にならないと言えば嘘になる。

「物質界に行ってみますか?」
「え?」

 どうしてそう言い出したのか、アマイモンにはよくわかっていなかった。ただ、しえみが言われてから塞ぐように物思いをしていたから――、気晴らしにと言ったのだろう。

「でも」
「様子を見に行くだけなら問題ないでしょう。兄上に手配させます」

 そう言うなりアマイモンは手にしていた携帯のボタンを押した。




 フツマヤの庭を訪れたのは久しぶりだった。誰かが手入れしているのか、主を失って数年経つ庭の植物たちは主がいなくなる前と変わらない美しさを保っていた。
  その中に一人植物に囲まれるように一人の女性が立っていた。背に透明な蝶の羽を携え、植物に語りかけるようにしゃがんでいる。羽が生えていることを除けば、いつか見た庭の手入れをしている姿そのままだった。
  そして、変わってしまった姿はさしずめ妖精の女王――ティターニアのように、月明かりの中で妖艶に輝いていた。

「やっぱり、ここにいた」

 もうすぐ12時を迎える時刻だった。当然、フツマヤは閉まっている。彼女が虚無界にまだ戻っていないなら、もししえみがいるとしたらここだとわずかな可能性を信じて雪男はここに来ていた。 

「雪ちゃん」
「待って下さい!」

 雪男に怯えてか、しえみは一歩下がる。また、さっきと同じようにいなくなってしまいそうで、焦りを隠さず雪男は叫んでいた。
  努めて冷静に雪男は言葉を探した。時間といくらか情報を得た為、先ほどより落ち着いている。大丈夫だ、と自分に言い聞かせながら。

「先ほどは失礼しました。その……混乱していて」
「――気にしないで。悪いのは、わたしだから」

 しえみもどう話したらいいのかわからないのだろう。雪男に向ける表情は、罪悪感を感じているように苦しげだった。

「フェレス卿から大体の話は聞きました。あなたが地の王の花嫁になったと」
「うん」

 質問にしえみは頷く。

「……自ら悪魔になりたいと願ったと」
「うん」

 できれば否定してほしい質問を、事実だと静かにしえみは頷く。雪男は悔しかった。これが事実なら、どうして3年前、自分は彼女を止められなかったのかと、雪男は思わずにはいられなかった。

「どうしてですか?」

 理由を知りたかった。

「それは……」
「それに聞きたいことはまだあります。あの時、しえみさんと兄さんの間で何かあったんですか?」

 言いよどむしえみに焦りを隠せなかった。雪男の目には、今のしえみの姿は、すぐにでもどこかに消えてしまいそうなほど儚げに映っていた。

「答えて下さい! あなたが死んだと聞いた時の兄の様子がおかしかった。兄はこのことを知っているんですか? 僕だけが知らされないまま……」

「違うよ! 違う……。わたしが悪魔堕ちしたことはメフィストさん以外は誰も知らない」

 ぐ。と雪男は奥歯をかみしめた。

「燐とは――、喧嘩してたの。仲直り、したかったな」
「今からでも仲直りはできます。行きましょう」

 差し出された手に対して、しえみは首を横に静かに振った。

「もう、行かないと。本当は誰にも会わないつもりだったの」
「行かないで下さい! 戻ってきて下さい、しえみさん!」

 手を掴んでいた。着物の袖からのぞいていた華奢で細い手首を、雪男は掴んでいた。びくり、としえみの体が揺れた。
  祓う。しえみを自分が殺すのかと、メフィストに問われた時、雪男は答えを見つけられなかった。答えを見つけられないまま姿を探して、あの庭に、依然と変わらないように佇んでいるしえみを見て――。

――僕にしえみさんを殺せる訳がないじゃないか。

 自分には彼女を殺せないと、雪男はさとった。それだけじゃない。無理だと言われても、しえみを取り戻したいと強く感じていた。その為なら何をしても構わないと思ってしまうほどに。

「騎士団内の言い訳なら僕が無理矢理つけます。悪魔堕ちしたなんていくらでも誤魔化します。悪魔の力が問題ならクリカラのように力を封じる道具を用意します」

 細かいことは考えられなかった。無理も矛盾も組織への背徳も、すべて無視して雪男はただ一つの願いをしえみにぶつけていた。
  言葉に揺れている碧眼を見つめて、雪男は大きく息をすった。

「だから――戻ってきて下さい。それでも無理だというなら、僕と」

 契約を。

 その言葉は最後まで言われることはなかった。
  ぐん。と雪男の体は後ろから強く引っ張られた。衝撃でしえみを掴んでいた手は離れ、視界は急転。その一瞬に、原因だとしか思えないとんがり頭を視界の端に捉えて、その直後、壁に叩きつけられる衝撃が雪男を襲った。

「雪ちゃん!」
「そこまでです」

 視界が定まらない中、声だけがよく聞こえた。

「アマイモン!」

 非難するようにしえみがその名を呼んだ。地面に崩れ落ちながらも、雪男は正面を睨みつけ、その姿をしっかりととらえた。いつの間にそこに現れたのか、裾がボロボロになっているコートを着た男が立っていた。

「ぐ……っ。き、さまっ!!」

 即座に起き上がろうとするが、思うように体が動かず雪男は片膝をついて顔を上げた。受け身も取る間もなく、数メートル離れた壁に叩きつけられた痛みは思った以上に体にきていた。それでも雪男は迷わず懐から銃を取り出して、すっと構え標準を合わせようとする。雪男としえみの直線状に割り込む形で姿を現したアマイモンに。

「帰りが遅いので迎えに来ました」

 雪男が構える銃など視界に入っていないかのように、唐突に現れたアマイモンはしえみへと歩み寄る。どうにかその動きを止めようと、銃を構え直すが先ほどの衝撃による痛みが走って標準が定まらなかった。息も整わない。

――こんなに近くにいて。

 拒むことなく、アマイモンを叱るように何事かを話しているしえみが雪男の視界に入った。以前はそんな風にあいつと話さなかったと、二人が会話している姿を見るだけでしえみがとても遠い存在になったような絶望が雪男の胸を締め付けた。しえみと話していて彼女が変わっていないと思えていたのにそれが錯覚だったのでは、と疑わしくなる。

――僕じゃ届かないのか。兄さんならどうする?

 銃を下げることも出来ないまま、雪男はしえみがアマイモンに抱きかかえられるのを見ていた。背中の羽を痛めないように、着物姿のしえみを器用に横抱きにアマイモンは抱え上げた。

「しえみ……さん」
「何を考えているか知りませんが、彼女はボクの妻です。誘惑はやめてもらいます」

 冷たい目で雪男を見下ろしながら、アマイモンは告げた。その腕の中で、しえみは――。

「ごめんね、雪ちゃん。ごめんね……」

 雪男を見て泣いていた。それが、先ほどの自分への答えだと、雪男にはわかってしまった。
  言葉は届かなかった。しえみを取り戻すことはできなかった。銃を掴んでいる手がゆっくりと下がっていく。
  土を蹴る音がしたと思うと、宙を飛んでいる姿が空に浮かんでいた。

「もう一度兄さんに会って下さい! しえみさん!」

 すぐにその姿は建物の向こうに消えて行った。

 とっさに雪男が叫んだ言葉は、しえみに届いただろうか。





 虚無界に戻って、しえみが泣きやむのを傍で待って、涙を拭いて彼女がほほ笑んだ後になっても、アマイモンはしえみを抱きしめた腕をほどこうとしなかった。

「ありがと。もう大丈夫だよ」
「……」

 最初はしえみも甘んじていたけれど、いつもより強く抱きしめられているような気がして、彼の様子が気になった。けれども、身動きがかなわない為アマイモンの表情をしえみが見ることはできない。

「アマイモン? どうしたの? いつものあなたらしくない……」
「帰ってしまうかと、思いました」

 言葉を零すと同時に、また僅かに強張る腕。

「そう思うと胸が苦しく、落ち着きません」
――こんな感情をボクは知らない。

 感情を持て余して、どうすればいいかわからなくて。しえみを抱きしめていると、その感情が収まっていくからアマイモンはしえみから手を離せなかった。

「わたしはどこにも行かないよ。ずっとあなたと一緒にいるって誓ったじゃない」
――ずっと? そうだ。しえみとはそう契約していた。

 でも、その言葉通りならアマイモンには理解できないことが一つある。手を離すと、しえみがいなくなってしまうのではないか。という寂しさが、さっきから頭を付きまとって消えない。

「でも、あなたには帰る場所がある」

 また、意図せず手に力がこもった。

 あの日、しえみとアマイモンは別々に行動していた。理由は一人で行きたい所があるだろうから、という兄のアドバイスからだった。適当な場所で時間を潰していたが、不意に胸騒ぎがして、しえみの姿を探して、あの奥村雪男と庭にいる姿を見つけて――、アマイモンはどうしようもないほどの焦燥に駆られた。
  しえみを連れて行かれる気がした。それくらい気にならないことのはずだった。

――言えばしえみはいなくなる?

 物質界に行ってから滅多に感じない焦燥ばかりがアマイモンの中に募っていく。

「本当にあなたのことを想うなら、ボクは――」

 この手を離すべきなのかもしれない。
  逆に手にこもる力は強くなる。
  物質界に帰してあげた方がいいのかもしれない。
  あなたが生きる場所はあっても、ボクにはないのかもしれないけど。

 言葉は続かなかった。

「アマイモン?」
「ボクはしえみを愛しています。あなたが来てくれてボクは幸せです。どこにも行って欲しくない。誰にも渡したくない。でも、あなたは――本当に幸せなんですか」

 悪魔が手にいれた人間に、幸せを問うなんて滑稽だった。そんな概念はそもそもアマイモンの中に存在しないはずなのに。

「あなたの幸せがわからない。それが苦しい」

 しえみが物質界に戻るなんて、しえみの幸せがわからないことに比べれば小さな悩みのように思えて、かといってどうしたらいいかもわからずアマイモンはしえみを抱きしめていた。