任務に従事していたらいつの間にか夕暮れになっていた。多くの人が帰り道に急ぐ中、同じように帰るはずの燐は、祓魔師の鍵を取り出して扉を開けた。
開いた扉の先は街の中に高くそびえる白亜の石畳の橋。その先には祓魔師行きつけの道具屋フツマヤが夕日に赤く染められて佇んでいる。
――謝らねぇと。
なんて言えばいいかはわからない。でも、頬を叩いてしまったことは謝らないといけない。その上で、ちゃんと断らなくちゃいけなかった。
一歩踏み出しながら燐は手をぐっと握り締めた。
――俺は逃げただけだった。
少しでも嬉しいと思ってしまった。ずっと一緒にいてくれるなら嬉しいって。それで、嬉しいと思っている自分が許せなかった。そんなことを感じさせるしえみが怖かった。
言い出したしえみは本当に必死そうで、それだけ自分のことを考えてくれたんだと燐は思う。あの時、しえみが真剣に燐の目をまっすぐ見ていて、その視線を正 面から受けて燐にはしえみの必死さが伝わってきていた。けれども、先に燐はしえみから視線を外した。悪意も何もないまっすぐな視線が燐には辛かった。喜ん でしまいそうになる自分が燐にとって怖かった。喜びのあまり、やり方も分からないくせに本当にしえみの願いを叶えてしまいそうな自分を燐は認めたくなく て、認めてはいけないと必死に自分に言い聞かせてしえみの言葉に耳をふさいだ。
手が勝手に動いたのはその時だった。
――あれが無意識だったなんて、言い訳にもなりゃしねぇ。
今でも正しい答えがなんなのかなんてわからない。
どんな顔をして会えばいいのか、今でもわからない。
でも、燐はずっと悩んでいる性分でもなかった。会ってちゃんと話せば、このもやもやした感情だってすっきりするはずだと、フツマヤに足を向けた。
扉からフツマヤまでは決して遠くはない。はやって駆け出しそうになるのに、まだ迷いと不安を断ち切れていないのか燐の足取りは重い。短いはずの橋を歩いている時間がいつもより長く、そして遠く、燐には感じられた。
そうしてやっとの思いでたどり着いたフツマヤの門には、一枚の張り紙が貼ってあった。
『まことに申し訳ありませんが、諸事情により本日は休業させて頂きます。お急ぎのご用時の方は以下に連絡をお願いします』
「休み? ……珍しいな」
年中無休という訳でもないけれど、定休日以外にフツマヤが休むことなんて年末年始と盆を除いたらなかったような気がする。店主が出張でも、しえみが代わりに店番をするからだ。
店が閉まっているなら庭にしえみがいるとも思えないが、燐はきびすを返して向かおうとした。その時、懐にある燐の携帯が鳴った。
――こんな時に……誰だ?
「雪男?」
着信者の名前を見て少し燐は驚いた。仕事でも家でもよく顔を合わせる弟が任務中以外で電話をかけてくることは珍しかった。
「もしもし?」
『兄さん。今どこにいる?』
「フツマヤの前だけど」
『……今すぐ来てほしいんだ。いつもの場所で待ってるから』
「ちょっと待てよ! 俺、用事がまだ」
『しえみさんのことで話があるんだ』
有無言わせぬ勢いで、一方的に電話は切られた。
「しえみ?」
――なんで雪男からこのタイミングでしえみの名前が出てくるんだ。
電話越しの、緊張した雪男の声に燐はイヤな予感を感じて、走った。
それから、数分後だった。
燐がしえみの死亡報告を雪男から伝えられたのは。
あばらを何本か折ったのかもしれない。全身がまだ痛む中、自分で応急処置だけして雪男は立ち上がった。
静かなしえみの庭。先程までしえみがそ こにいたこと自体が幻だと言わないばかりに庭自体はとても綺麗で、どこも壊れていない。その庭の中にさっきまでそこにいたしえみの姿を雪男は投影して見て いた。ここで何かあったということは、庭にある壊れた倉の壁くらいしか証明してくれない。
――後で、壁のこと、フツマヤさんに謝らないとな。
重い足をひきずって雪男は倒れていた場所のすぐ傍に倉の扉に近づく。
祓魔師の鍵を使ってとりあえず家に戻ろう。
ちゃんと傷の手当てをして、それから――。
ぽたりと、こぼれてきた水滴に、鍵を取り出そうとした手が止まった。水滴はすぐに増えていって、雪男の視界をにじませていった。
「ふ……くっ……」
目元を拭っても涙はこぼれてきた。嗚咽をかみ殺そうとしても、できなかった。
「とり、戻せなかった……」
扉にすがりつくように、雪男は嗚咽をこぼした。真夜中の月明かりに照らされた静かな庭に小さな嗚咽がしばらく響いていた。
――しえみさんがここにいないのはどうしてなんだ? 取り戻せると、思ったのに。
手の平にしえみを掴んだ時の感触だけが残っていた。少し冷たくて、柔らかくて、細い腕の感触。
――どうして放してしまったんだ。
メフィストはアマイモンと、しえみを悪魔堕ちさせた悪魔の名を呟いていたじゃないか。どうして、その相手のことを忘れていたのか。学園のどこかに潜んでいる危険性を頭から追いやっていたのか。
いくら後悔しても雪男は後悔したりない。
不意に悔恨を遮るように携帯が鳴った。涙を拭って、その着信を確認して、一瞬躊躇したのち雪男は電話に出た。
「兄……さん?」
『おっせーぞ、雪男。もうみんな帰っちまったぞ』
電話越しに聞こえる兄の声はどこか陽気だった。酔っているな、と雪男は思い出していた。
――ああ、そうだ。今日はそんな日だったんだ。
しえみの命日にみんなで墓参りをして集まって、雪男も今日の任務が長引いてしまったけれど、墓参りをすませたらその集まりに合流するつもりだった。突然の出来事にすべてを忘れて彼女の姿を追いかけていた。
「……ごめん。忘れていた」
『いいから早く来いって。いつもの場所だからよ。せめて晩酌くらい兄ちゃんにつき合えって』
酔っているのか返事をする前に、一方的に電話は切られた。
そういえばこの日だけは酒が苦手なはずの兄がよく酒を飲んでいる。ぐでぐでに酔って、最後の後かたづけをするのは、いつも自分だったことを思いだして雪男は鍵を取り出した。
遅れてやってきた弟を兄は快く迎えていた。店の奥の個室に顔を出すと、こっちだと言わんばかりに手で招いた。
「どうしたんだ、雪男。何かあったのか」
「うん。ちょっとね」
燐がグラスを差し出し、雪男が受け取る。冷えたグラスに早速とばかりに燐がビールを注いだ。
「まぁ。とりあえず乾杯! お疲れ様ー!」
「お疲れ」
そう言って雪男はビールを一気にあおった。癒えていない傷がズキズキと痛んだが、あまり顔に出さないように努めて。
話は仕事の話から始まって、今日集まった面々が相変わらず元気だったことや、ここに連れてきていないクロも元気だとか、そんな話を燐は続けながら酒をあおっていた。
「えーと、あと、それでだなぁ……」
「兄さん」
「あ? 何だ?」
対面にいる兄の赤ら顔が、弟の視界に映った。
「兄さんは、しえみさんのことをどう思っている?」
目を瞬かせて、その後、ああ。と燐は言った。今日はそうゆう日だと、思ったようだった。
「好きだったよ。いや、今でも好き、だな」
酔いが少し醒めたようだった。表情がさっきまでと違って、どこか引きしまったように雪男には見えた。
「僕も、好きなんだ」
そう言って雪男は酒を飲みほした。怪我をしている時に酒を飲むなんてタブーだとわかっていながら。しかし、言ってしまえば少しは雪男の気持ちも楽になった。彼女を取り戻したいと思ったのも、彼女が傍にいなくて苦しいのもその感情がそもそも原因だった。
「しえみさんって兄さんに似ているよね」
不意に、まだ会って間もない頃、兄としえみがどこか似ているように感じていたことを思い出した。
「そ、そうか?」
「他人のことを自分のことのように考えていて、優しくて、人のことを思って本気で怒れる人で、辛い思いをしている人を本当の意味で支えることができる。僕はそんなしえみさんの強さに惹かれていたんだと思う」
彼女の前向きな姿勢に惹かれて、時には嫉妬しつつも見守ってきた。もし、同じように肩を並べて学んでいたら、と柄にもなく有りもしないことを考えたときもあった。
「だから、しえみさんが死んだ時、兄さんの様子が気になった。何かをすごく悔やんでいるようだった。しえみさんと何かあったの?」
しえみと会っていたことを隠して、確認したいことがあった。しえみの、あの言葉だ。
――こんな聞き方……やっぱり僕は卑怯者だな。
騙すようで居心地は悪かったが、それでも聞かなければならなかった。
「……ちょっと喧嘩してた。謝んなきゃって思ってたのに、帰ってきたらしえみはもういなかったんだ」
――だからあの時フツマヤにいたのか。
不意に雪男は一歩でも早くアマイモンとしえみが契約をする前に、燐がしえみに会っていたらどうなっていたのか、と思った。実際に二人の間で何があったのかもわからないまま。
「俺って進歩ねえのな。取り返しのつかないことになってから後悔してばっかだ」
手元のグラスを傾けて自嘲気味に燐は話した。
しえみのことを燐が知ったところで今からできることは何もないのかもしれない。それなら、何も知らない方が兄は幸せなんじゃないか。そう、何度も雪男は思っていた。
――でも、決めるのは兄さんだ。
黙っていても何も変えられない。後悔も、それを取り戻すチャンスも、自分自身が動かなければ何一つ変えることなんてできない。雪男は、まだ後悔している。しえみを捕まえることができなかったことを。
「まだ間に合うよ」
「は? 何言ってるんだ?」
同じようにグラスを傾けて雪男は言った。言われた意味が飲み込めないのか、燐は目を瞬かせた。
「――しえみさんに、会ったんだ」
「兄上、しえみのことなんですが、しばらくこちらに預けてもよろしいでしょうか」
「時期としては随分早いな」
また聖十字騎士団に対する言い訳――大義名分を考えないといけない。アマイモンが切り出した時、メフィストはそんなことを考えていた。
「今後のために、少し話をさせておきたいのです」
誰と、とは言わない。
「――いいのか?」
「ええ。どうせ長いつきあいになりますから」
表情も変えず淡々と、それこそあっさりとした口調でアマイモンは答えていた。
――意外だな。
メフィストはアマイモンがもっとしえみに執着するかと思っていた。奥村雪男に全治二週間の怪我をさせた割には随分と淡泊な印象すら感じる。もちろん先程も 述べたように、話を始めた最初から今まで感情というものはアマイモンの顔に一切表れていない。そもそも感情を表現するような弟ではないが。
「それで、その後はどうする?」
結果から言ってみれば問題はその先だった。しえみが奥村兄弟と話すにしろ、騎士団内で悪魔墜ちした祓魔師を認められる規則はない。悪魔である奥村燐が認め られたのは、元々悪魔だったということ、人として育てられていたということ、そして悪魔祓いにおける実績と貢献といういくつもの要因と認められるだけの時 間が必要だった。その上、例外中の例外という形だった。
その点、しえみは自ら悪魔になりたいと願っている。人間としての生を捨てた元祓魔師。その動機がなんであれ騎士団としては認めることはないだろう。
今では奥村燐は騎士団内の聖騎士の立場にある。燐にしえみを殺すことができるとメフィストは思っていないが、聖騎士という称号は悪魔墜ちを見過ごしていい立場の者には与えられない。
「話してみないとわかりません。あ。しえみがこちらにいる間はボクも物質界に滞在します。ボクに部屋はいりませんが、しえみには部屋を用意して下さい」
他者への配慮が根本的に欠けている弟が他者のことで言及するのはメフィストの記憶の中でも初めてだった。
――いや、十分執着しているか。
単身で会わせる気がないのか、それとも影から様子を見るのか。どちらにしても、その後の展開を想像してメフィストは嘆息をついた。
「それはわかったが、一応学園は壊すなよ」
「努力します」
いつものように『わかりました』と素直に答えない弟を前に、メフィストは思った以上に重症だと一人考えていた。