無限の鍵を使うことによって入れるいくつかの特別な空間。その中の、とりわけ使うことのない部屋の一つに足を運んで、メフィストはその部屋の光景に嘆息をついた。
「まったく、あいつは」
この部屋を訪れた理由は別にあったが、その理由が果たされる前にたどり着いたのは運が良かったのかもしれない。会おうとしていた人物は姿をくらましているようだった。
――あれほどダメだと言い聞かせたのに、同じ人間を浚ってきたのか。
鳥かごのような形になったツタの中で、一人の少女が眠っていた。散々泣いたのだろう、目元には涙の跡がある。今度はエサにするつもりも、帰すつもりもないのだろう。奥村燐や雪男、ひいては霧隠シュラでさえ、この場所を特定することもたどり着くことも難しい。
――しかし。
と、メフィストは眠っているしえみを見つめた。あどけない少女が窓から差し込む満月の光に照らされて、暗く陰湿な部屋の中で存在を浮き上がらせている。衣服から覗く白く柔らかそうな肌が妖艶な香りを放っていた。わずかに透けて見える血管を流れる血が美味しそうにみえた。
――どうもこの娘は悪魔に好かれるタイプらしい。
奥村燐は少なくともしえみに好意を抱いていて、使い魔の緑男は当然のように慕っているし、弟のアマイモンにまで目をつけられている。アマイモンに至っては好意に値する感情かはわからないが。
「ここまで来ると不運だとしか言いようがありませんね」
ツタを切り裂いて、駕篭に入り口を作って、中に押し入った。その時、駕篭が揺れてゆっくりとしえみが目を覚ました。どこに自分がいるのかもわすれているのか、ぼんやりと眠たげに顔を上げている。目と目が合い、しえみは目を見開いた。
「り、じ、ちょう……?」
「怖がらないでください。私は助けに来ただけです」
言葉の意味を理解できなかったのか、しえみは周囲を見て息をのんだ。
「わ、たし。どうして――こんな所に」
記憶をたどって思い出したのか、言葉は途切れ体がふるえ始める。彼女が何を見て、何を感じているのかわからないが、少なくともこのツタに覆われた異常な空間に彼女は怯えている。
「大丈夫ですか?」
「は、はい」
手を貸して、立ち上がらせる。一見体には何も異常がないように見える。が、首筋に小さな米粒のような魔傷があることにメフィストは気づいた。
「首の付け根に魔傷がありますね。悪魔に何かされた覚えはありますか」
「え!? そ、そうなんですか? すいません……。私、気がついたらここにいました。どうやってここに来たのかも、何があったのかも何も覚えていません」
「調べるために少しさわってもよろしいですか?」
素直にしえみは頷いた。触れるとくすぐったかったのか、彼女の体は震えた。
――種、か。
命に別状はなさそうだが、何の意図もなく埋められたはずもない。寄生虫と同じように、傀儡にするためだろうか。どちらにしろ、相談もなしに手を回す辺り、配慮がないのか、出し抜こうという意志があるのか。どちらにせよ、面白くなかった。
「あ、あの……。どうなんでしょう?」
「命に直接関係することではなさそうです。が……」
「?」
そう言いつつもメフィストはどうも気乗りがしなかった。種を放っておいて、その結果がどうなるのかも見てみたいという誘惑があった。かといって、現状はまだアマイモンを遊ばせる時期ではない。種が発芽すれば時期を関係なくアマイモンは仕掛けてくるだろう。
余計なことをされて、周囲をひっかき回されるのはつまらない。大切なおもちゃ箱は中身がちらかっても、ちゃんと箱がしていれば片づけることができる。奥村燐に執着し、周囲の破壊も省みない状態のアマイモンは時と場合を選んで引き合わせる必要がある。そうしなければ、箱自体が壊れてしまう。
そうなれば、メフィストがやることは決まっていた。
「これから起きることをあなたは覚えない。見たことも、聞いたことも、感じたことも」
不安そうに見上げているしえみの瞳をのぞき込みながら、暗示と呪いの言葉を告げる。首すじに添えた手をそのまましえみの小さな肩へと移動させる。
「り、理事長?」
メフィストの周りを漂う空気が変わっていた。知らずしえみは後ろに下がろうとしたが、肩を捕まえられているため動けない。
――可愛らしい。
しえみの逃げようとする仕草が獲物のソレだ。追いつめたくなる誘惑を引き立てるだけだと、いつも獲物は気づかない。
「この時だけはメフィストと呼んでくださいな」
本来の、悪魔のような笑みを浮かべてメフィストは囁いた。
その笑みにしえみが恐怖を感じたのは僅かな間だった。メフィストが前に乗り出してきて、慌てて体を引こうとして、上体のバランスを崩した。肩を掴んでいた手はいつの間にか離されていて、そのまま後ろにしえみは倒れ込んだ。
ぽす。
「え?」
想像したより柔らかい感触にしえみは目を白黒差せている。メフィストが用意したソファーにしえみは倒れ込んだ。ちょうど腰をかけるように。
しえみの上体を背もたれに押しつけながら、その首筋にメフィストは口づけを落とした。
「え? あ……、や! な、なに、を……」
『種』の位置を確認して、それ自体を傷つけないよう牙を突き立てる。その瞬間、しえみの口から悲鳴が漏れた。じんわりと血の味が口の中で広がるのを感じて、さらに牙を奥へと押しつける。
「や、やめて……」
口からか細い懇願が漏れた。痛みに恐怖に体がすくみしえみは動くこともできなかった。揃わない息に、涙がしえみの頬を伝う。
最近生き血で喉を潤すことがなかった分、血が甘くみずみずしくメフィストは感じていた。もっと欲しいと、吸い尽くしたい欲求を押し殺して首筋から口を離した。
「やっぱりあなたの血は美味しい。けれども、今回はそれが目的ではありませんから」
ぱちん。と指を鳴らすと、糸が切れたように、しえみはソファーの中で意識を失った。重くなった体を抱え上げて、本来彼女がすごしている場所へと魔術で移動する。彼女を、家に帰さないといけない。そして、しえみはこれからも今までのように祓魔塾に通ってもらわないとメフィストは困る。『種』は取り除いた訳ではないのだから。
訪れた寝室で、布団に横たえて、意識のないしえみの衣服の乱れを整えた。首筋に残った僅かな跡はすぐに消えるだろう。けれども、魔傷としては外見上見えなくなっても残り続ける。
「予防ですよ。上位の魔傷は下位の魔傷を押さえる働きがありますから」
魔傷を消せるのはメフィスト自身のみ。今後の予定の中に、しえみの存在を組み込みながら、月夜の中に彼は姿を消した。