傷つきやすく壊れやすい宝石箱


 少なくとも自分も興味を持ってしまったことを自覚せざるおえなかった。
  味を覚えてしまった娘の血が、じわりと内側をかき乱すようだった。拒絶ではなく懇願を口にした可憐な少女が、喘ぎ乱れる様を見てみたい。あの血の味をアマイモンはまだ知らないのだろう。もったいないことをしているように思えたがわざわざ伝える必要もないことだ。
 

 

「え?」

  いつもの塾に行こうとして扉を開けたはずだった。一見通路の雰囲気は変わらないが、正面へと長く続く通路に戸惑った。いつもなら授業のある教室近くの、通路の側面に面している扉の一つを開けているはずだった。
  違和感を感じつつもしえみは扉を閉じた。閉じてから使用した祓魔師の鍵を確認する。いつも使用している鍵と変わらないように見えた。
  長い通路を、いつも行くはずの教室を探しながら、しえみはキョロキョロしながら歩いていた。しばらく歩いても通路に面している扉は一つもない。平たく言えば窓もなく、しえみが歩いている場所はただの通路だった。
  不安になって一度足を止めてしえみが振り返れば、最初出てきた扉が小さく薄暗い闇の中に消えようとしていた。

――一度、戻ろうかな。

  鍵を使ったときに何か間違いがあったのかもしれない。一度、家に戻って、もう一度鍵を使えば、いつもの祓魔塾の建物に行ける――。扉のない長い通路に感じる圧迫感と不安に、引き返そうとしえみは体を反転させた。

「どうして、あなたがここにいるんですか?」

  それと同時に後ろから投げかけられた声。さっきまで歩いていた時には誰もいなかったはずの場所から声をかけられて、しえみは慌てて振り返った。そして、固まった。

「え?」

  見かけたことのある顔だった。しえみの記憶の中ではぼんやりとした記憶でしかないけれど、この悪魔が燐や、勝呂達を傷つけたことをしえみは知っている。
  八候王の一人、地の王――アマイモン。

――どうして、この人がここにいるの!?

  アマイモンが投げたけたものと同じ疑問をしえみも心の中で悲鳴をあげていた。訓練生が相対するにはあまりにも相手が悪すぎた。

「あ、あなたこそ、どうして……」

  震えながらも辛うじて返事を返せたのは良かった。アマイモンは提示された疑問に首をかしげた。彼からしてみれば、しえみがそんな疑問を持つのが不思議だった。なぜなら、この場所を歩く祓魔師はここにアマイモンが居ることをあらかじめ知っているはずだからだ。

「どうして? ここはボクに兄上が用意してくださった場所だからです。学園内に滞在するときはよくここにいます」

  さも当然のようにアマイモンは理由を話した。

「それで、どうしてあなたはここにいるんですか?」

  事情を知らない様子の娘にアマイモンは興味を持ち始めていた。ここは事情を知らずに入るには危険すぎる場所だ。事情を知らないということは、進入者と判断され、結果的に排除される。それほどに、第三者に知られてはならない学園の秘密がここにはあった。
  一歩、アマイモンが前に出れば、同じ分だけしえみは後ろに下がる。目の前の悪魔から放たれる威圧感に震える体を押さえ込もうと、しえみはそれぞれの手に拳をつくって強く握りしめた。

「わたしは……塾に行こうと鍵を使ったらここにいて……。こ、ここに来るつもりはなかったの!」

  しえみの言葉にアマイモンは首をかしげた。
  いくら複雑に魔術が空間をつないでいる場所だとしても、特に重要な場所に限ってメフィストの魔術がほころびを作るはずがないことを、アマイモンは知っている。

「偶然? おかしいな。そんなことあるはずがないのに」

  アマイモンがまた一歩踏み出し、しえみが一歩下がった。
  『偶然』がありえないことを知りながら、しかし、アマイモンの目から見てもしえみが嘘をついているようには見えなかった。疑問の矛盾を解消できないまま、もう一歩踏み出して、あることをアマイモンは思い出した。目の前の娘に関することだ。

「そうだ。ちゃんと根が張られたか確かめたいと思っていたところです」

  歩調を速めて、アマイモンはしえみとの間合いをあっという間に詰めた。顔を真っ青にして今にも悲鳴を上げそうなしえみに鋭く長い爪先を向けた。
 
「アマイモン」

  不意に低い声がどこからか投げかけられ、ぴたり、としえみに向かってのばされていた手は止められた。アマイモンの後ろにいつの間にか現れた長身の男を目にして、しえみは胸に安堵を覚えた。

「理事長さ……」
「兄上。どうして止めるのですか?」

――え?

  助けを求めるようにつぶやいた声は、アマイモンの言葉にかき消された。それと同時に助けを求めようとしていた思いもかき消された。

――今、なんて……。兄上? おにい……さん?

  言葉に対する理解は正しかったが、状況を飲みこめずしえみは固まっていた。そんなしえみを余所にアマイモンは伸ばしていた手を引っ込めて、不満げに後ろのメフィストに視線を送っていた。対するメフィストは不遜な笑みを浮かべていた。

「彼女は私の客人だ」

  客人、と言われてしえみは戸惑いを隠せなかった。ここに迷い込んだのは偶然のはずだ。招かれた覚えはなかった。

「手違いがあって戸惑わせてしまいましたね。さ、いらっしゃい」
「は、はい……」

  違和感を感じつつも、アマイモンという悪魔から逃れるにはしえみはメフィストについて行かざる終えなかった。誘うように先を歩き始めたメフィストの後ろに ついていけば、アマイモンは追ってこなかった。しえみがほっとしたのもつかの間に、メフィストは通路の奥にある扉を開けた。
  その先はどこか薄暗かった。

「どうぞ」

  促され、迷いを感じつつもしえみはその先へと足を踏み入れた。