「顔をあげてくれよ、モルジアナ」
その言葉に首を横に振るだけで、モルジアナは決して顔を上げようとしない。
今朝からモルジアナはこの調子だ。
俺が目を覚ました時、モルジアナは俺の体を水にひたして絞った布で俺の体を拭いていた。その感覚で起こされたようなもんだった。だるく重い体で彼の名前を呼んでからというもの、この通りだ。
怯えるように床に額をつけて俺に頭を垂れている。俺の顔を見ようともしない。
――ああ、もうっ!
このままじゃ埒があかない。
ため息をつけば、モルジアナの肩がビクッと震えたのが分かる。
顔を上げないモルジアナの所へ自分から行こうと、ベッドから起き上がって歩こうとして――、俺は床に崩れ落ちた。
「へ?」
足に力が入らない。腰がぬけた、とでも言うべきか。
「アリババさん!?」
無様な恰好で床に俺が体を打ちつけた音に、モルジアナが顔を上げて慌てて駆け寄ってきた。床でもがいていた俺を抱き上げて、視線を彷徨わせながらモルジアナは俺を再度ベッドに横たえた。
そして、すぐに離れようとした彼を、逃すまいと俺はその手を掴んだ。
「やっと、口きいてくれたな」
ようやく聞こえた声に、口元をほころばせたがモルジアナは顔をすぐに俯けてしまった。わずかに覗いた彼の顔はひどく強張っていた。
「……っ。すいません。私は、あなたに取り返しのつかないことをしました。いくら謝罪してもし足りません」
モルジアナなら俺の手を振り払うくらいなんてことないだろう。
「どうかあなたの気が済むまで私に罰を与えて下さい。この首を切り落としていただいても構いません」
謝罪の言葉をつむぐモルジアナは、いつものモルジアナだった。人一倍責任感が強くて、優しくて、礼儀正しくて――、俺がよく知っているモルジアナだった。
昨日は、彼に何が起きて、あんなことをされたのかわからなくて、ただただ彼のことが怖かった。でも、こうして言葉を交わすと決してそれが彼の望んだ行為ではないと、伝わってくる。
「モルジアナ、俺の目を見てくれ」
言えば、顔を背けていた彼がやっと俺に目を合わせてくれた。彼の綺麗な紅い瞳は今にも泣き出してしまいそうなほど、後悔に歪んでいた。その目から俺は目をそらさず、言葉を紡いだ。
「どうして、俺を抱いたんだ?」
その問いに、モルジアナの瞳が揺れた。しかし、口元は引き結んだままだった。何か答えようとして、口が僅かに開いては閉じられた。どうにもうまく答えられない理由でもあるのか。
しばらく待っても答えは返ってこなかった。もしかしたら、今は答えられないことなのかもしれない。
「それじゃ、次の質問」
息を吸って、今朝からずっと感じていた疑問。彼の様子からずっと思っていたことだ。
「昨日のこと、モルジアナは覚えているのか?」
紅い瞳がまた揺れる。僅かな沈黙の後、ゆっくりとモルジアナが口を開いた。
「……いいえ」
絞り出すような声だった。繋いだ手が震えている。彼が震えているのは、自分自身に対する怒りのせいな気がした。
――俺よりもお前の方がよっぽど辛そうじゃないか。
思わずモルジアナを抱きしめたいと思った。きっと彼はそんなことをさせてくれないだろうけど。
「……それじゃあ。この話はもう終わりにしようぜ」
「!?」
あの行為がモルジアナの本意じゃないとわかれば、それで俺は良かった。昨日の晩、モルジアナはどこかおかしかった。名前を呼んでも答えなかったのは聞こえていないんじゃなくて、何か原因があったんじゃないかって俺は思っていた。
モルジアナの様子が、以前バルバッドで見た魔法道具で幻影を見せられている人々のそれに似ていた。そうじゃなきゃ、あんなことをモルジアナが俺にするはずがない。モルジアナが俺を抱きたいだなんて、思っているはずがないんだから。
――覚えていないなら、抱いているのだって俺じゃなかったかもしれないんだ。
聞きたいことは聞けた。掴んでいた手を、ゆっくりと放した。
『……アリババ』
不意に、あの晩、意識が途切れる前に彼が呟いた声を思い出した。きっとあれも聞き間違えに違いない。そう思えば何故か胸が苦しくなった。
本当は聞きたい。モルジアナが俺のことをどう思っているのか。
俺も、俺がモルジアナのことをどう思っているのかを、知りたい。
今はそれを口に出せば、答えが出る前に答えが壊れてしまいそうな気がした。それに、自分で今言ったばかりじゃないか。この話は、もう終わりにするって。
「俺はお前を罰するつもりは無いよ。これからも今まで通り一緒にいて欲しい。お前が覚えていないって言うなら、俺もなかったことにするよ」
「……いいんですか」
「ああ」
頷けば、静かだったモルジアナが顔を上げて詰め寄ってきた。
「……っ! アリババさんは私に無理やり犯されたんですよ! それも何の記憶もなかったって言っている男に! いい訳が、ないじゃないですかっ!」
「俺がいいって言っているんだ」
「あなたが良くても、私はっ! 私は私自身が許せません!」
「……モルジアナ。お前、白龍並みに面倒くさいぞ」
「白龍さんは関係ないでしょうっ!」
別の所に気を反らさせようとしたけれど完全に逆効果だった。かたくなになったモルジアナが梃子でも動かないのは俺も知っている。
「わかったよ。罰を与えれば、モルジアナは満足するんだな?」
ため息が漏れた。
「今日一日、俺の周りの世話をしてくれよ。腰はこんなんだから、まだあまり動けないし、色々とできないことがある。とりあえずお腹が空いたから、朝飯をもらってきてくんねえかな」