愚かしくも差し伸ばした手のひら



  涙が綺麗だと思ったんだ。雨に濡れただけなのかもしれない。実際には泣いてなどいないのかもしれない。それなのに、全身ずぶ濡れになって立ち尽くしている姿はどうしてか、俺にはジュダルが泣いているように見えたんだ。
  おかしいよな。こいつは酷い奴なんだ。バルバッドを滅茶苦茶にしたアルサーメンの一人で黒いジンを操っていたってのに。
  そして、何よりもおかしいのは、そんなこいつに嫌悪感も抱かず敵意も向けない俺自身なのかもしれない。

「こんなところで何をやっているんだ?」

  よりにもよってシンドリアの密林、巨木の木々に囲まれた小さな泉。未だ降り続いている雨にその身をさらしているのはわざとだろう。木々の合間の僅かな場所しか雨に濡れられる場所などないのだから。その理由がわからないまま俺は歩を進めて、ジュダルに近づいていた。

「なんだ、よわっちぃ王候補じゃねぇかよ」

  声に振り返ったジュダルが俺に仕掛けてくる気がしなかったのは何でだろうな。穏やかな自然の風景が争いを感じさせないのか、雨が未だにしとしとと降り注いでいるからか。もっともらしい理由をあげるなら、ジュダルが俺を脅威とさえ認識していないか、だろうか。

「ここはシンドリアだ。俺がいてもおかしくねぇだろ。……泣いているのか」
「なんでそう思う?」
「わかんねぇよ、自分でもな」

  別にジュダルは目元をぬぐうこともしていない。となると杞憂だろう。けれども、雨に濡れ潤んだように見える紅い瞳から俺は目が離せなかった。憐憫を誘う様な表情ですらない。感傷に浸っているようでもなかった。それなら、泣いていると感じたのは見間違いなんじゃないか。
  けれども、視線を交わしている相手は否定するそぶりを見せなかった。
  僅かな沈黙の後、ジュダルがその口を開いた。

「お前はさ、俺がアル・サーメンの被害者だって言ったら信じるか? 生まれて間もない頃に両親を殺されてずっと『組織』に利用されてきた。そうとも知らずに堕転させられ、言いなりになることを強要させられていたんだ。お前のマギが俺にそれを教えた」

  脳裏に浮かんだのはバルバッドで戦った時だった。アラジンが不思議な力を使ってジュダルが苦しみ出した時。あの時に、その景色をこいつは見たんだろうか。

――けれど、こいつはドゥニヤ王女のように堕転から解放されているようには思えない。

  少なくともアル・サーメンが回収して連れて帰っていた。堕転から解放されているとは考えにくい。アル・サーメンには白いルフを黒く染める術もあるのだから。
  けれども、ジュダルがこうした話を俺にする意図が読めなかった。

「それで、お前は助けを求めているのかよ?」

  わざと挑発するような言葉を選んだ。少なくともこいつが、俺に、助けを求めてくるなんてありえないと思ったからだ。
  真意が分からないなら聞きだすまでだ。

「どうだろうな? つーか、反応薄いなぁ。お前、シンドバッドにこの話聞いたのか?」
「は? なんでそこでシンドバッドさんが出てくるんだよ」
「知らねーのか? まぁいいか」

  肩をすくめたジュダルが俺から視線を外した。詰めた息を吐き出しながら、全く自分は相手にされていないみたいだと、冷静に俺は観察していた。
  恐らくジュダルは望んでない。
  俺がこれから言うことも、提案することも。軽々しく口にして良い提案でもないだろう。
  俺にその意志がなくても、傍から見ればシンドリアやアラジン達を裏切っているように見えるかもしれないのだから。

「俺は……俺がお前を助けられるなら、救いたい」
「…………は?」

  疑問符を浮かべたジュダルがまた俺に視線を戻した。紅の瞳と正面から向き合う。

「『組織』の一員でも堕転した理由が誰にでもあるんだろ。俺はドゥニヤ王女と出会って学んだんだ。アル・サーメンとただ戦うだけじゃ何も変えられないって」

  あの戦いから、どう戦えばいいのかも迷っていたけれど。

「お前を救おうと足掻くことがアル・サーメンと戦うことになるなら、俺はジュダルの手を取りたい」




  差し伸ばした手に迷いはなかった。