わたしのけじめ


 メイクを落として、潮風にべたついた体をシャワーで洗い流すととても気持ちがよかった。汗と埃をきれいに洗い流して、シャワールームを出ると昨日までとは違う爽快感がわたしの胸の内にあった。

――来るって信じていたんだ。

  何気ない会話から読みとれたあいつの自分に対する信頼。
  どうして、そんな風に信じられたんだろう。わたしはあの時、現場の召集に応じないで、歌を選んだというのに。たとえ最後に感情や衝動が体を突き動かして、現場に向かったのだとしても――あいつがわたしを信じているとは思えなかった。

――バッカみたい。

  無条件で人を信じそうなバカさ加減がワイルドタイガーにはあるみたいだった。夢を持っていてその為にヒーローを辞めようと考えていたわたし。普通に考えれ ば来ない可能性の方が高くて、わたしが他人だったらヒーローを辞めようとしているブルーローズ来るとは間違いなく思わないだろう。
  シャワールームに隣接しているトレーニングルームには、他のヒーロー達がまだぽつぽつと点在していた。もう夜も遅いから、帰宅が早い人は姿は見えない。その視界の中に虎徹を見つけて、自然とわたしの口から苦笑が漏れた。

「まったく」

  何を考えているんだか。と誰にも聞こえないくらいの小さな声で小言がこぼれた。あいつの考え方はわからないし、知りたいとも思わなかったけれど――その信頼がどうしようもなくわたしにはくすぐったかった。



  夜遅くに帰ってきた娘を両親は玄関で迎えてくれた。暗闇の中に灯る白熱灯の柔らかい光に迎えられて、わたしは家の中へと入っていった。

「おかえり」
「ただいま」

  テレビで事件は中継されていたのだ。ヒーローを辞めるとあれだけ言っていたわたしがどこに行っていたのか両親はわかっている。それでも何も言わずいつものように迎え入れてくれている。
  リビングに案内されて飲み物を入れるからと――母はキッチンに姿を消した。数分もしない内にマグカップに注がれた温かいミルクが席に着いたわたしの前に差し出された。

「ありがとう」
「カリーナ、お疲れさま」

  そう言って軽やかに笑うと母はリビングから静かに出ていった。
  残されたのは、父とわたしだけ。ミルクを一口飲んで顔を上げると、仏頂面の父が黙ったまま正面に座っていた。いつもの帰宅とは違う雰囲気で――沈黙が重かった。

――言わなくちゃいけない。

  散々心配をかけてしまった。今回のヒーロー辞退の一件に関しても、誰よりも心配してくれたのは両親だった。その両親に、どうして自分が事件現場に行ったのかを、わたしは話さないといけない。
  沈黙を破って、先に切り出してきたのは父だった。

「続けるのか?」

  告げられた言葉は短かった。けれど、その質問が全てのようにわたしには感じられた。
  父と母の心配ごと――ヒーローという仕事。それを続けるのか、続けないのか、そしてその理由。わたしが両親に伝えることは、先送りにしてきた質問の答えだ。それを答えて、ちゃんと物事に区切りをつけて先に進むことが、わたしがしなくちゃいけないけじめだった。
  わたしは少しだけ息を吸い込んだ。

「うん……。困っている人を見捨てられないから」

  誰かが助けを必要としていて、自分には助ける力があった。それも、自分一人じゃなくて同じように困っている人を助けようとしている人達がいる。
  スポンサーだとかオーナーだとか、もちろん歌手になる夢を捨てた訳じゃないけれど、ヒーローを続けることに細かい言い訳を周囲にも自分自身にもすることは なくなっていた。認められたいって気持ちがなくなった訳じゃない。けれども、誰かが信じてくれることで、いつの間にか他人に認められることに対する意地が なくなっていた。

「そうか」

  娘の決心を少し残念そうに眉尻を下げて父は聞いていた。

「これを機に辞めてくれればと思っていたんだが、仕方ないな」
「ごめんなさい……。パパ」
「謝るんじゃない。今のカリーナは良い顔をしているよ。そんな顔をされたら止められないだろう」

  席を立つと手を伸ばして父親は励ますようにカリーナの肩をそっとたたいた。

「いつでもパパとママはカリーナを応援しているからな。歌手の夢も、ヒーローも」

  伝えたかったことを伝えたとばかりに、にっこりとした笑顔で父はわたしに背を向けた。そのままリビングを出ていこうとしている。久しぶりに父の笑顔を見た気がした。いつからわたしは父の笑顔を見ていなかったんだろう――。
  反射的に、わたしは立ち上がっていた。

「パパ! ……いつも心配してくれてありがとう」

  ついて出た言葉は、普段は言えなかった言葉だった。
  いつも反発してばかりで、口論ばかりしていて、伝えられなかった気持ちをわたしは口にしていた。




  一人残されたリビングで残りのミルクをわたしはゆっくりと飲んでいた。
  ここ数日は、気持ちが不安定で落ち着かない日々を過ごしていた。それが今はどうだろう。ヒーローを続けることに迷っていた気持ちは吹っ切れて、不安やいらだちもなくなっている。迷いを断ち切ってヒーローを続けることを決められたのは、誰のおかげか――。
  うっとおしいほどに声をかけてきたひげ面を思い出して、自然と笑みをわたしは浮かべていた。

「まったくあのお節介おじさん……。絶対感謝なんか言ってやらないんだからね」

  そう一人呟いてわたしは残りのミルクを飲みほした。