暖かい場所 ― her heart hopes to stay... ―
――記憶を…消す? 何を…、何を言っておられるのじゃ?
足が震えるのがわかった。憧れと溢れんばかりの感動はいつの間にかどこかに消え去っていた。代わりに胸に残ったのは、底冷えするような恐怖と裏切られた絶望。周りの言葉も喧騒も急に無意味なものに思えた。ただ、自分に手を伸ばしてくる魔物の手が、異様に気味悪く思えた。
一歩下がると足元に何かがぶつかった。血にまみれた手が、そこに転がっていた。驚いて違うほうに身を引いたらそこでも何かにぶつかった。今度は誰かの血にまみれた足だった。周りを見回すと、誰も立っていなかった。誰もが血まみれで倒れている。どうして自分だけが無事で立っているのか。
――だ、誰かいないのか! 誰か!
名前を呼ぼうとして、はたと気付いた。脳裏を仲間と呼べる者達の顔がよぎるのに、名前が、浮かばない。のど元まで出掛かってもそれ以上叫ぶことができない。その上、頭に浮かんでいた記憶が次第にぼんやりと霞んでいく。
――嫌じゃ。もう、一人は嫌なのに。
手に出来ないものをどのように掴めばいいのかわからなかった。両手で震える自分自身を抱きしめて、いつの間にか闇に包まれた空間に目を凝らした。そこに、誰でもいい、誰かいてほしかった。
目を瞬くと、いつもと同じように木目の天井が目に入った。
「ゆ、夢か」
心臓が早鐘を打っていた。
ゆっくりと起き上がって周りを見回すと、いつもの簡素な家具が見えた。化粧台の上に飾ってある一輪の白ユリが窓から差し込む月の光に照らされていた。いつもと変わらないアデル達の家の一室である。
――おかしな話じゃ。豪華な宮殿よりもこのように質素で閑静な部屋に安心を覚えるなどと。
息をゆっくりと吐くと気分がいくらか落ち着いてきた。恐ろしい夢だった。きっと武闘会の夜に会った父上の言葉が、暗く心にのしかかっていたせいだろう。
記憶を抹消しろ。
ロザリーはその言葉が恐ろしかった。今までのアデルに召喚されてこのホルルト村で過ごした時間が全て空白になると考えるだけで、胸を空くようなぞっとする恐怖に襲われたのだ。今更のように、この世界を蝕んでいる呪いの恐ろしさをロザリーは知った。
何やらけたたましい音が扉の外から聞こえてきた。騒がしい音に対しロザリーはすぐに眉をしかめたが、それと同時に小さな安堵を感じていた。この静かな闇夜がまだ夢の続きであるような気がしていたのだ。誰もいない…暗闇の世界の続き。しかし、明らかに足音はこの部屋に近づいていた。ロザリーは訝しい表情になって扉を見つめた。枕元に忍ばせておいた拳銃にそっと手を伸ばす。
「どうした! 何かあったのか!」
勢いよく開けられた扉から顔を出したのはアデルだった。特徴ある赤毛は暗闇の中でよく見えなかったが、その声を聞き間違えることはなかった。ロザリーは、一瞬何が起きたのか理解できなかったが、アデルが寝巻き姿で、ついでに自分が寝巻きのままでいることに気づいて、手に掴んでいた銃をとっさに扉に向かって投げつけた。
「レ、レディの寝室に入るでない!!」
銃はまっすぐ直線にアデルの顔面に飛び、うめき声が返ってきた。
「いてぇ! な、なにすんだよ!」
「それはこっちの台詞じゃ! 己の姿をかえりみよ!」
言われて正直に見る。そして一言。
「ただの寝巻きじゃねえか」
何の反省もないアデルの言葉に、ロザリーは苛立った。
――なんと鈍いやつか!
「普通、そのような姿でこの時間この場に来ることがどれだけ無礼か分からぬのか」
ゆっくりとかすかに怒りを感じさせる声でロザリーが言うと、ようやく言われたことに気付いたらしい。慌ててアデルは背を向けた。
「そ、そんなつもりじゃねえよ! 悲鳴が聞こえたから何かあったのかと思ったんだ…。なんともねえならすぐ戻るさ」
「悲鳴? 余が…、悲鳴を上げたというのか?」
――それをよりにもよって、こやつに聞かれたと言うのか?
意外な返事に今度はロザリーが顔を赤くした。思い返せば、思い当たりがまったくないこともない。恐ろしい夢を見たし、その際に悲鳴を上げていてもおかしくなかった。が、それ以上にその悲鳴をもっとも弱みを見せたくない相手に聞かれたということが、ロザリーを愕然とさせていた。
「その割にゃ、何もなかったみたいだけどな」
拗ねるような声。床を伝って、ロザリーの銃が足元に戻ってきた。
「…待て。いや…、待ってくれぬか」
扉を閉めようとしたアデルが怪訝な表情を浮かべて振り返った。
続きを言葉にしようとしてロザリーは少しためらった。先を何も考えずに声をかけたわけではない。一つだけ、アデルにどうしても聞きたいことがロザリーにはあった。闘技場から逃げ出した時から今までずっと胸にあった疑問。
ただ、聞くには少しためらいがあった。そのためらいがどこから生じるのか、ロザリーにはまだ理解しきれていなかったが。
「その…少しだけ聞きたいことがある…、アデル。なぜ余をここに連れてきたのじゃ」
「なんでって…」
「道案内の役も果たせぬ余に、おぬしは余を父上に会わすという約束を立派に果たしてくれた。たとえそこで余がなんと言われようとも、それはおぬしらが気に病むことではないはずじゃ」
途中から声が震えた。自分で口にすることで、改めて心の中に苦しさをロザリーは覚えた。
――そうじゃ…。余にはここにいるべき理由がもうないのじゃ。もう余の居場所など…どこにもない。
かといってアデル達の家を出ても行く当てもない。その上、ゼノンの配下に見つかれば記憶を消された上で屋敷に連れ戻されるのだ。召喚される前と同じように、豪華で広大な屋敷の中で、また一人で時を過ごすのだ。それがロザリーには恐ろしかった。
「それに…、契約はもう終わったのじゃ。もう、おぬしらに余をここに置いておく理由もないじゃろう。」
一つの間をおいてアデルはゆっくりと答えた。
「……そうかもしんねえけどよ。あんなことを言われて平気じゃねえだろ。お前はあそこにいたくなかったんだろ。だったらここにいてもいいじゃねえか。お前だって自分の知り合いがあんな風に言われたらほっておかないだろ」
「そ、それは……そうかもしれぬ。じゃが、おぬしに理由はないはずじゃ」
「約束しただろ。お前を守るって。だから、守る。何があってもだ」
「じゃが、それは余を父上に会わせるまでのことじゃろう!」
強い声で否定した。そうしないと自分の気持ちが保てなくなりそうだったから。
「余は同情が嫌いじゃ…。どんなに余が情けのうても、同情されることだけはゴメンじゃ!」
「同情じゃない! 仲間だったら助けるのは当たり前だ」
「いつ余が仲間になったというのじゃ! 余とおぬしは敵同士じゃ。少なくとも昨日の今日でそれは変わらぬ。今のおぬしの行為が同情ではなくてなんだというのじゃ!」
「じゃあ、お前は屋敷に帰りたいのかよ!」
次第に喧嘩口調になってアデルから飛び出した言葉に、ロザリーは言葉を失った。胸の奥が痛い。錯覚だけではないように苦しくなって、ロザリーは胸の前で自分の銃をぎゅっと握り締めた。何かを言い返さなければならないと感じたが、ロザリーは何も言い返せなかった。
急に相手が黙ってアデルもようやく気付いた。
「わ、悪い…。言い過ぎた」
「……かま…わぬ」
息を吐くようにか細い声だった。ロザリーにとってそれだけ言われたくなかったことだった。暗い沈黙が静かに空間を支配した。月の光によって生み出された花の陰だけが僅かに床の上で揺らいでいる。
――なぜ、こんなにも胸が苦しいのじゃ? 理解しとうない…。
理解を拒んではいたがロザリーは分かっていた。
帰りたくない。だけど、いつまでもここにいて良いとは思えない。ただ、不安だったのだ。
頭を横に振ってから顔を上げた。アデルが心配そうにこっちを見ていた。
「……今夜は、騒がしてすまなかったな。許せ。余も気が動転していたのじゃ。……それに聞きたかったことも聞けた。今しばらくは厄介にならせてもらうぞ」
自分に嘲りを向けた、寂しい笑みをロザリーは浮かべた。自分の内にある気持ちを全て押させつけて、苦しみなど気付かれないように繕った。今更意味のないことだとは思っていたが。
「あのな。別に出て行くことなんかなくたっていいんだ」
「どうゆう意味じゃ?」
アデルは気まずそうに頭をかいている。視線が空をさまよっているのを、ロザリーは意味を計るように見つめていた。
「お前はずっとここにいてもいいんだ。その…嫌じゃなかったら」
「はあ?」
思わず聞き返していた。
「なんども聞くなよ!」
「い、いきなり怒鳴ることはなかろう! ただ意味を聞いただけじゃ」
「意味なんてねえよ。その言葉のまんまだ。大体、お前はいちいち勘ぐりすぎなんだよ。人を少しくらい信用したっていいじゃねえか」
「な、なんじゃと。それこそ余計なお世話じゃ。おぬしのように人を無条件で信じるような愚かな行為、余にできぬな」
売り言葉に買い言葉。暗くて互いの表情をはっきりと見ることはできなかったが、空気は明らかに変わっていた。
「あーそうかよ。たくっ。そういやもう用はないんだったよな。あーあ、何もなかったかと思うと急に眠くなってきたぜ」
「そ、そうじゃ。用事が済んだのだからさっさと帰るがよい」
「何だよその言い草は」
「別に余が呼んだわけでないのだ。当然であろう」
にらみ合うようにしていたが、どちらともなく顔を背けた。
ほどなくして、ぱたん。と音がして扉が閉まった。まだ、空が明けるには早い時間だった。ロザリーは一人になった部屋でまたベッドの中に身を埋めた。いつの間にか胸を締め付けるような寂しさや恐ろしさがなくなっていて、ロザリーは一人小さく笑った。
小さく呟いた声は誰にも聞こえていないのに、ロザリーは恥ずかしそうに布団の中に顔を埋めた。