断片化された記憶

――いらない。

 それは始めは一人の声だった。

――こんな力、いらない。


  気味の悪い赤い枯れ木が立ち並ぶ森の中で、己の小さな手のひらを眺めながら呟かれた最初の言葉は、ひどく漠然としていた。しかし、はっきりとした意識と、一抹の不安と、静かな虚無感の中で呟かれた。そのことだけは、しっかりと記憶に刻まれている。その時、一人は全てを失って、もう一人も一つのものを手に入れるために僅かな荷物を捨てていた。それぞれが捨てたものに対して、得られたものは対価として不十分だったのかもしれない。それでも前に進むことを義務付けられていた。

 その時、今のオレの全てが始まった。しかし、同時に全てに取り返しがつかなくなったのかもしれない。

 

 

 

 周りが血の色に染まったような赤い枯れ木ばかりの森の中で、オレはそいつに出会った。

「そいつが生贄ってやつか。なんだガキじゃねえか」

――こいつが…、世界を喰らう者?

 目の前にしたその大きさに手が震えるのをとめることは出来なかった。代わりに拳を握り締めて、気を落ち着かせようとした。手の平に食い込む爪の痛みが、かろうじて自分がここに立っていることを支えてくれていた。

 第一印象は巨大な青い鎧だった。かぶとの奥に見える炎は、鎧の魂のようにめらめらと燃えていた。その鎧が口を開いて、オレはようやくそれが生きた何かであることがわかった。

「文句を言うな。融合に適しているのは子供の方だ。魂の発達が十分でないために融合が早く進みやすい」

 オレの後ろに立っている大きな仮面をつけた魔術師が言った。この魔術師が、オレを、オレ達をここに連れてきた張本人だった。オレはもう一度拳を握りなおすと、後ろを振り返った。

「オ、オレが生贄になれば…。姉さんの命は助ける。そうだな」

「いいだろう。ただし、お前が少しでも逃げる素振りを見せたら姉の命はない。いいな」

「……わかってる」

 選択肢はあってないようなものだった。元々、オレはその生贄とやらの為だけに連れてこられたらしい。この化け物に喰われて死ぬなんて、オレは嫌だった。でも、避けられないなら条件の一つや二つ言って、言いたいことも言ってやらないと気がすまなかった。

「へっ。なんだこのガキ。随分、生意気言ってるじゃねえか。立場、わかってんのか」

 あざ笑うような嫌な声だった。その言葉に、相手が世界を喰らう者だとか、巨大な化け物だとか、そういったことを忘れてオレは睨みつけて、大声で返していた。

「……守りたいものを守りたいって言って何が悪い! 喰うなら喰えよ! 絶対姉さんには手を出させないからな!」

「お前を喰った後、姉も喰うかもしんねーだろ。お前が死んだらどうやって守るって言うんだ?」

「喰われたらお前の腹の中で暴れてやる! 絶対守るんだ!」

 その気持ちだけは本当だった。住んでいた家は突然の盗賊たちによって燃やされた。親だって生きているか分からないまま、自分達は連れ去られてここにきた。たった一つだけ確かに残っている姉だけは、何が何でも守りたかった。
 
「夢の話じゃねえんだぞ。んなこと出来るわけねーだろ」

 不意に声は興味を失ったように沈んだようだった。そいつは視線を後ろの魔術師に投げかけ、儀式を促したようだった。魔術師は黙って一歩前に出ると、世界を喰らう者に対して杖を掲げた。

「少年。何か姉に言い残したことがあるなら、今のうちに伝えておくがいい。もうすぐお前はいなくなる」

 無機質で淡々とした声だった。もしかしたら目の前の化け物よりもこっちの魔術師の方が、嫌いかもしれない。ぞっとするような現実が後ろに迫ってきていた。逃げ出したい恐怖に足が駆られるようだった。それでも逃げ出さなかったのは、そこに姉さんがいたからだろう。姉は、魔術師によって眠らされていた。地面にくずれおちるようにして倒れていたけど、ちゃんと息はしていた。

「姉さん…。オレ、何があっても姉さんは守るから。絶対守るから」

 聞こえているかはわからなかった。けれどその傍を離れるとき、一粒の涙が姉の頬を伝っていた。

 

 

 そこからの一歩一歩はとても重かった。何かが間違っているようにも感じていたし、現状に納得もいかなかった。それでも、オレは前に進むことを選択した。その選択を、した。