逃げる逃げる
何がまずかったかといえば、それの要因が料理の腕であったことは間違いない。それは、自分でも嫌というほどアーチェは自覚していた。しかし、何がどう間違ったらこのような結果を招くのかは、アーチェにとっても甚だ理解をできる範疇を超えていた。自分はいつも普通に料理をしているつもりなのだが、同じく旅をしているミントが作ったものとは全く別の物質が出来上がるのである。そして今、それは料理というよりも一種の薬物に成り上がっていた。
目の前ではくつくつと鍋が煮立っている。そして、その近くには青みがかった銀髪の男が倒れていた。料理の様子を見に来たチェスターがである。彼は面白半分で、「お前、ちゃんと味見をしているのか?」と軽口を叩きながら、一口アーチェの料理を口に運んだのである。アーチェは腕を組んで、空を仰いだ。森林内の天蓋は、赤く焼かれた雲や空を木々の合間から覗かせていた。アーチェとしては、この料理かよくわからないモノを早い内に仕上げ、仲間の所に運ばなければならないはずだった。
アーチェの料理のもっとも困難な所は、見た目と匂いはそれなりに出来上がっていることだった。一見、おいしそうに見える。だから、そこまで危険とは感づきにくい…。目を回したチェスターと出来上がった鍋を見比べて、アーチェは唸った。
――今まで不味いとは言われたけれど、食べた途端目を回すってことは…、一応初めてだよね。
いっその事、料理ではなく対魔物用のアイテムとして使った方がマシかもしれない。そこまで考えが及んで、アーチェは肩を落とした。何故こうなるのか、と。
――取りあえず、こいつを起こすか。
このまま考えていても、らちがあかない。アーチェは煮立っている鍋の火を消すと、目を回しているチェスターを揺すった。見事な昏倒ぶりである。これが芝居なら、それはそれで見事な演技だ。
「おーい。チェスター。あんた、起きなさいよー」
「うーん」
揺さぶられチェスターはすぐ目をさました。上半身をすぐに起こすと、頭を強く打ったときのように、頭に手を当て首を横に振った。
「オレ、一体どうしたんだ?」
「どうしたも何もないわよ。あんた、あたしの料理を食べたんじゃない」
「は? 料理……」
視界の中にアーチェを定めると、チェスターは途中で言葉を切った。驚いた時と同じように、目を見開いてアーチェを見つめている。その不自然なその動作に、アーチェは思わず顔をしかめた。
「どうしたの? ひっくり返った時にどっか頭でもぶつけた?」
「……可愛い」
「は?」
あまりにも場違いな言葉にアーチェは何を言われたのか理解できなかった。チェスターも自分が何を言ったのか、を理解していないらしい。言った後の微妙な沈黙で、自分が何を言ったかに気付き、顔を真っ赤にしてそむけた。
「なななな…何言ってんだ、オレは!」
「あんた、本当にどっかぶつけて悪くしたんじゃないの?」
こうゆう時冷静なのは、いつもチェスターだった。だが、今はそう思えないほど取り乱している。心配するアーチェをよそに、チェスターは慌てて立ち上がると、鍋から、さらに詳しく言うならアーチェから距離をとった。その俊敏な動きを見れば体に異常がないのはすぐにわかったが、その行動は明らかに異常である。
「んなことはない! 意識だってハッキリしている。なのに、なんつーか、その…」
その赤くなっている顔を間を詰めて、アーチェが興味深そうに覗き込んだ。本当に耳たぶまで真っ赤になっていた。目と目が合うと、それこそさらにチェスターの顔は赤くなった。
「落ち着かねえんだ! お前が傍にいると!」
悲鳴を上げるようにして唐突に後ろに向かって走り出した。そのまま逃げようと小さくなっていく背を見て、アーチェは一瞬呆気に取られたが、気を取り直して、追いかけた。
「アイスニードル」
長期戦になるかと思われた追いかけっこは、いい加減に痺れを切らしたアーチェが魔術を咄嗟に放ったことで呆気なく終わった。マナより生み出された氷のツララが、チェスターの先にある木に連続して突き刺さった。おかげでチェスターの足は止まった。
「何しやがるんだ!」
「あんたが逃げようとするからじゃない。大体、何が起きたのかあたしはさっぱりなのよ」
憤然と振り返ったチェスターだったが、アーチェと顔をあわせた途端、気まずそうに視線をそらした。
「オレだってさっぱりだ! お前、何を作った!?」
「普通に料理よ! 見てわかんないの!? なのに、どーして、逃げるのよ!」
と、脅すように呪文を定める手を凶器のようにちらつかせる。
「あ……。いや、だからその…。取りあえず近づくな!」
近づくなと言われれば、近づきたがるのが人間の本性である。面白いおもちゃを見つけたように、猫のように素早く足を止めたチェスターの所に駆け寄った。
「へへーん。もう来ちゃったもんね」
得意げに胸を張るアーチェに対し、チェスターは観念したようにため息をついた。いや、息を整えようとしたのかもしれない。
「……頼むから逃がしてくれねえ」
「だーめ。大体、なんで逃げるのよ! 訳が分からない! それに、何々? そんなに顔赤くなっちゃって。もしかして、アーチェさんの魅力に負け…」
言葉は途中で途切れた。
「へ?」
何が起きたのか理解できず、顔を上げるとアーチェの顔のすぐ隣にチェスターの顔があった。抱きしめられ、互いに黙りこくった沈黙の中、アーチェが聞いたのは胸を通して聞こえるチェスターの心臓の音だった。それは、本当に一瞬だった。すぐにチェスターが腕を解いて、離れたのだ。起きたことが信じられず呆けている間に、肝心のチェスターはさっきの脱兎のごとくの勢いで、茂みの方に逃げていった。何かを喚きながら。
「な、何よ、それ?」
今度は追いかける気力も無く、アーチェはその場にへたり込んだ。その顔は、さっきのチェスターと同じようにみみたぶまで赤くなっていた。
それから少し経って、アーチェの料理は破棄されることになった。誰に相談したのかわからないが、クラース曰く「アーチェも一応魔女のはしくれなんだなあ」だそうだ。ちなみに、近くにいた小動物に試しで食べさせると、目を回した後その目に始めに映ったミントにやたら懐いたという・・・。