零れ落ちる青
青空が本当に雲も無く真っ青に晴れ渡っている時、それを鏡のように映す海は空と同じかそれ以上に青く澄んでいる。
「うっわぁ! すっげえ!」
眼前に広がる大海原を前に、興奮を抑えきれず柵から身を乗り出し少年は声をあげた。その背中を腰に手を当てながら、呆れ眼で眺めていた少女はため息をついた。
「ガキ。ほんっと、あんたってガキよねー。海を見たぐらいでこんなに騒いじゃって」
頭上から降ってくる余計な一言に気分を害された少年は、眉をしかめて後ろの空を仰いだ。真っ青な空の中に雲が浮かぶように、少女はふわふわとほうきにまたがって漂っていた。すました顔でほうきの上で器用にねっころがると、少年を鼻で笑って見せた。
「別にいいじゃねえか。初めて見るんだから驚いたって当たり前だろ」
滅多に羽目をはずさないだけに、その様子が見られたことが悔しいのか少年の頬は少し赤くなっていた。
「あたしはもう前に見たもん。クレスに、ミントに、クラースだってもう前に見ちゃったもんねー」
少女がつらつらと読み上げた名前に、少年はまた眉をしかめた。その中には彼が幼い頃からの親友も混じっている。
――俺だけ…か。
親友は自分と違い過去に行き、その間に沢山の物を見て、成長もした。
帰ってきてからは自分も旅に加わったが、どうしても自分が後から旅に加わったという、どこか取り残されたような気持ちを感じることが多かった。
今も。
少しだけ胸が痛む。
「……お前って本当に嫌味だな。ま、いいけどよ」
「ありゃ? 今日はつっかかってこないの」
にらむというよりはどこか呆れを含んだ視線を少年は空に投げた。そして、またさっきと同じように海を眺めた。少し張り合いの無い対応に、少女も興味を持って少年が眺めている海を見た。
「見てみろよ」
背を向けたまま少年は促した。少女は同じように海を見ていたが、何がそんなに面白いのかわからない。
空と陸地では見えるものが違うからわからないのかもしれない。
そう思って高度を落とすと、ほうきから降りて少年の隣に並んだ。
「何を?」
「海だよ。視界一面を水が覆い尽くしているんだぜ。すごいと思わないのか?」
少年は目を輝かせて、海を見つめていた。
空と海、その境にある水平線は、互いの境界線であるのにあいまいに見えるほど、その二つの色はとてもよく似ていた。何度か海を見たことがある少女にとっても、そうやって改めて眺めることは少し新鮮で、自分で思っていたよりも海をじっと眺めていた。太陽の光を反射する海は、蒼い宝石のようにきらきらと輝いていた。
不意に視線を感じて横を振り向くと、少年の蒼い瞳と目が合った。先に視線をずらしたのは、少年の方だった。顔を隠すように反対の方向を向いたので、少女からはその表情が読めない。
「何よ」
「あ……。いや…、お前ってそんな顔もするんだな」
――なに、それ? どうゆう意味?
意味を図りかねて、少女は眉をしかめた。少し見える横顔が赤らんでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「それを言ったらあんただってそうでしょ。本当に、子供みたい」
続けてけらけらと少女は笑った。
それは少女の率直な感想だった。海を見て、驚いて、はしゃいで、目を輝かせている姿は、少女にとってはじめて見る姿だった。これが彼の素顔なのかもしれない、と思った。大切にしていた家族を失い、辛い思いをした彼の。
「あんだと」
子供という言葉に、むっときて少年はすぐにすねた顔になった。でも、対照的に少女は晴れやかに笑った。
「でも、たまにはそーゆーのもいーんじゃない? いっつもしかめっ面してるんだからさ」
「……大きなお世話だ。バカやろう」
それからは、なんとなくどちらも押し黙り海を眺めていた。風は海のにおいを含んで、少し塩辛い。
しゃれた言葉の一つも言えず、時間は静かに経っていった。それが数秒なのか数分なのか、分からないほど時間の流れがすごくゆったりと、少年は感じていた。それは少女も同じだったのかもしれない。空の青が海の中に溶け込むように、それはひと時であり、永遠だった。ただ、風が心地よかった。
眼下に広がる海。ふと、少年は丘から下に降りる階段が少し離れたところに存在していることに気付いた。
「おっ! あっちに階段があるぜ!」
何気なく言って、少年は階段の方に走った。その空気に押されて、少女も走った。少年の走りは早く、少しでも目を離すと見失ってしまいそうだった。階段は小さな小岩の影にあり、さっきまでの位置からだと陰に隠れて見えなかった。
――よく見つけたわねー。
少女は胸中で少年の洞察力に感嘆した。遠くの標的も正確に射る弓の名手でもある少年にとっては、陰に隠れた階段を見つけることくらい動作も無いことなのかもしれない。
――でも、なんか悔しい。
素直に相手をほめる気になれないのは、その相手との捻くれた関係のせいだろう。第一印象が互いに最悪だった上に、その後もどちらかが口を開けば口げんかが起きるのは日常茶飯事だった。そのケンカ相手を素直にほめたら、それこそ気味悪がられるのが落ちである。
少女が少し立ち止まっている間に、少年は軽やかに階段を駆け下り、10メートルは下にある白砂の海岸に辿り着いていた。砂浜は弓状に反り返った海岸全体に広がっていて、太陽の光を受けて白色に輝いていた。
「うげっ。砂が入る」
ブーツに入った砂を逆さにして掻き出したが、また数歩歩くと砂が入ってきたので、少年は諦めて靴を脱いだ。焼けるような砂の熱さに最初は驚いたが、歩いていくうちに砂の感触が気持ちよく感じた。波打ち際に立つと、改めて正面の海を見据えた。丘の上で見たときよりも、その雄大さ、透明な蒼さが実感として感じられた。
「こんな所があったんだねー。知らなかった」
少年が後ろを振り向くと、少女がいつものようにほうきにまたがってふわふわと浮いていた。少年の近くに来ると、少女はほうきから降りてしゃがんだ。足元に散らばる色とりどりの貝殻に目は釘付けである。
「海はもう見たんじゃなかったのか」
少年は呆れ顔で呟いた。人のことを子供呼ばわりしておいて、今では少女の方が子供のように目をきらきらと輝かせている。
「海くらい見たことはあるけど、こんなにきれいな海岸は知らなかったの! うわー。綺麗。これで貝殻のネックレスとかブレスレットとか作ると素敵だろうなぁ」
手にした薄紫の貝殻を太陽に向けて掲げ、満面の笑みを浮かべた。一方、貝殻のどこがそんなに楽しいのか分からない少年は、足元に打ち寄せる波に素足を浸した。