かざみどり ――2――


 清められて意識のないアリババの額をそいつは愛おしそうに撫でていた。朝日が差し込んできた部屋で見た風景は、一見平和そのものに見える。
 けれども、俺の胸中はそんな穏やかなものとはかけ離れていた。

「ああ、神官殿。遅かったですね」

 そいつ――白龍が顔を上げて、俺を認めた。特に何事もなかった。いつもと変わりないというように、その声音は穏やかだ。それが、余計に俺の神経を逆なでする。

――なんでこいつに教えたんだか。

 他人が自分のモノを壊すのは不快だった。はっきりとわかった。これは不快だ。
 自分の行動を悔やむ前に体が動いていた。俺がベッドに近づくと、白龍がその腰を上げて俺に道を譲った。

「アリババっ! おいっ! アリババっ!!!」

 必死になって声を絞り出すなんて知らない。けど、俺は叫んでいた。いつもみたいにからかうように『アリババクン』と呼ぶ余裕もなかった。
 首には細い赤い筋の傷があった。青くなった顔をしていたが、とりあえず息をしていることにほっとした。けれども、これだけ近くで声をあらげているのにアリババは目を覚まさない。

「起きませんよ」

 心の奥がざわついている。
 たった数日だ。数日で白龍はアリババを壊してしまった。一度目は心を、二度目は体を。
 外に置かれた代えられたシーツは、所々に血を吸っていた。とりわけ足下にあたる部分に赤黒い大きなシミを残していた。そして、今見ればアリババの足首には包帯が巻いてある。

「心配はしないでも大丈夫です。止血もしましたし、栄養剤も投与しました。目を覚まさないのは、睡眠薬を飲ませたからです」
「何をしたんだ」
「腱を切りました。逃げられると面倒なのは神官殿も同じでしょう?」

 問題はないはずですが。と付け加えられた言葉に、こいつも壊れているんだな。と俺は思った。

「誰が壊していいって言った。こいつは俺のモノだ」
「本当にそう思うなら、ずっと一人で囲っていれば良かったんですよ。俺だって彼が欲しい。でも、アリババ殿の心は誰も手に入れられないんです。それなら――体だけでもって思うでしょう?」

 淡々と白龍は言葉を紡いでいく。

「本当はこのままここから連れ去りたい。俺だけの檻に閉じ込めたい。でも、そうするとあなたがアリババ殿を殺すんでしょう。それは避けたいからこうしている。代わりに、彼の体に、消えない傷をつけたかった」
「俺よりお前の方が先にこいつを殺しそうだ」
「はは……っ。それもいいですね」

 そう言って笑った白龍は、自分があれだけ嫌いだと言っている母親の笑い方に似ていた。笑顔の奥に、どす黒い物を隠している。

「そんなに彼があなたのものだと言うなら、アリババ殿に直接聞いてみたらいいんじゃないですか。誰のモノでもない、と彼は答えると思いますよ」

 用は済んだとばかりに、白龍は一礼するとその場から去っていった。

 

 

 三日間、アリババは目を覚まさなかった。

 

 

 死んだかと思うくらいの時間だった。死んでもおかしくないくらいのことはしている自覚がある。
 人が死ぬこと。それが、どこか恐ろしく感じたのは初めてのような気がした。

 アリババを閉じ込めていた部屋は別の所に代えた。せっかくの忠告だ。言われたとおりにするのは癪に障ったが、俺にはそうする以外に考えはつかなかった。
 アリババが目を覚まさなくなって四日目、目を覚ましたのか起き上がってぼーっとしているアリババを窓の外から見た。どうしてか、部屋に入るのを俺は躊躇っていて、結局その日はあいつの部屋に訪れることはしなかった。それでも、俺はあいつの様子が気になっていて、料理を運んだ侍女に話を聞いた。聞けば、料理を食べるくらいの元気はあるらしい。歩けなくなっていることについては、特に侍女に話すことはしなかったようだ。

 その日の晩、俺は眠れなかった。

 

――どうしてあの部屋に入らなかった?

 目を覚ましたなら会えばいい。毎日、目を覚まさないか、あの部屋に通っていたんだから。

――会いたくないなら、なんで今も気にしてんだ?

 あいつが目を覚ましているのを見た時、部屋に入りたくないと、俺は思っていた。興味が失せたなら、それでもいいだろう。けれども、部屋に入らなかったのに、今も目を閉じれば俺の頭に浮かぶのはアリババのことだった。

 どうしているのか。
 何を考えているのか。

 そんなことを知って面白い訳でもないだろうに、そんな考えが俺の頭に浮かんでは消えていく。

 

 その晩の明け方、俺はアリババの所を訪れていた。何をする訳でもなく、そいつが眠っているベッドの端に腰を下ろした。
 寝顔をのぞきこめば、血色の良くなった顔が健やかに寝息を立てている。額にかかっている前髪を触れば、さらさらと柔らかい髪の感触が指先にかかった。

――こいつの髪、さらさらなんだな。

 触れればすぐにでもわかることなのに、俺が知ったのは今だった。なんだか順番を間違えているような感じだ。髪の毛を梳いてその感触を楽しんでいると、肝心の相手が目をうっすらと開けた。反射的にベッドから俺は立ちあがって距離を取っていた。

「どいつもこいつも……泣き虫ばっかだな」

 ぽつりとアリババが呟いた言葉は誰に呟かれたのか、わからない。

――何の夢を見ていたんだ?

 アリババがゆっくりと体をベッドから起こした。そのはちみつ色の目が俺を捕らえた。

「ほら、こっち来いって」
――寝ぼけてんのか?

「大丈夫だから」
――大丈夫じゃねえのはお前だろう。

 体を動かすのも辛いはずだ。体中につけられた傷跡も痛まないはずがない。ろくに歩けもできなくなったんだ。それなのに、それなのに――。

 なんで笑うんだ。

 見ているこっちが胸が苦しくなる。こんな感情は俺は知らない。辛くて苦しいのに、離れたくない。

――まだ夢でも見ているんじゃないか? 俺を誰かと間違えているんだろう?

「ほら、ジュダル」

 名前を呼んだ。俺の名前を。

「っ!?」

 手を引かれて、抱きしめられて、人の手がこんなにも暖かくて安心するものだって、知った。何度もこいつを抱いたはずなのに、わけがわかんないことに今の方がずっと悪くない気分だった。

「なぁ、もしここがお前がお前でいられない場所なら――一緒に行かないか?」

 言っている意味はわからなかった。夢の続きか、今のことを言っているのか。今のことを言っているんだとしたら、もっと意味がない。

――お前はもう歩けないんだろ。ここからどこにも行けないだろ。

 目が覚めたなら、すぐに気付いたはずだ。自分が歩けないことも、体中に足以外にも癒えていない傷があることにも。

「……俺は戦争が好きだぜ」
「知ってる」
「お前は嫌いだろ。なんだって一緒にいようなんて思うんだ?」
「さあな。わかんねえ」

 こいつは壊れたのかと思った。でも、違う。こいつのルフは白いままなんだ。弱っているのかもしれない。それでも、真っ白で。

 その白さに惹かれていた。

 黒く塗りつぶそうとしていたはずなのに、なんでか今もアリババのルフが白いことに俺は安堵していた。
 慣れちまったんだろう。苛ついてばっかだったはずのこいつの白いルフと触れても、ここに連れてきた時みたいにイライラすることは無い。近くにいるだけで気分が安らいでくるんだ。

――なんか、やること決まっちったな。

 ここは温かい。日向みたいに温かかった。

「……もう少し、眠っていろ。まだ辛いだろ」

 弱い魔法をかけてやれば、アリババはすぐにでも眠りについた。

 

 

「おい、夏黄文。ちょっとツラ貸せ」

 探していた相手はすぐに見つかった。文官として仕事をしていなければ、紅玉のお付きとしてそいつは動いている。

――めんどくせぇことに、ババアも一緒だ。

「あらジュダルちゃん。どうしたのぉ?」
「神官殿、どうされたのですか?」
「あーーー。ちょーっとお前にしか頼めないことがあってよ。紅玉、お前はくんな」

 手招きをしてじゅうたんに乗せれば、紅玉もついてくる気でいたから、しっしっと手で払った。これ以上面倒な状況を作ってたまるか。

「ええーっ! どうしてよう」
「いいからくんなよ!」

 

「!? 彼はバルバッドの……」
「こいつの足を治してくれ」

 ついでに他も怪我しているだろうから、そいつも頼む。と付け加えた。
 夏黄文の眷属器の能力があればなんとかなるだろうと、連れてきた。足を切り落とされた訳じゃない。まだ、間に合うかもしれない。ついでに、こいつの身分も声をかけるにはちょうど良かった。どこの勢力にも強く属している訳じゃないから、周囲に情報を漏らしたくない時などは使い勝手が良い。

「これは……酷い。時間が少々かかりますが、よろしいですか?」
「ああ」
「……姫様には」
「言うなよ。紅玉だけじゃねえ。他の奴らにもだ」
「紅炎殿は知っておられるのですか?」

「……余計なことは聞くな」
「わかりました」

 面倒なことを知ってしまった。と言わんばかりの顔だ。が、こいつは他言せずきちんと仕事をするだろう。

 

――あとは、そうだな。