五日目の鐘が鳴る
――後になって考えても、この時の気持ちはよく思い出せない。たぶん、心の中がぐちゃぐちゃになっていたんだと思う。そうでなければ、あんなことを…。あんなことを私は口にしなかったのに……。
白い炎の光がガンメル先生の研究室を埋め尽くした後、残されたのは倒れたガンメル先生。そして私とバディド。それは、私がいつか見た光景だった。
「そんな……。アマレット……」
アマレットが内に秘めた天使の霊素を解放することにより、封印が解けた悪魔ギムレットを滅ぼす。確かにそれはこの事態を打開する一つの方法だったけれど、誰かが犠牲になる終わり方があっていいはずがない。この前の五日間も、アマレットが犠牲になってしまった。私は、他の方法をずっと探して今度こそ彼女が犠牲にならないと思ったのに、彼女はまた光となって消えてしまった。
「また……。また…守れなかった…」
後悔と虚無が胸に押し寄せて、私は崩れ落ちた。
アマレット……なぜ彼女が犠牲にならないといけないのだろう。今度こそ守れると思っていた。今度こそ誰も犠牲にならずに5日間を越えることができるのではないかって思っていた。けれど、どんなに途中まで上手くいっても、最後には音を立てて積み上げてきた平和は崩れ去っていく。
この前は悪魔達がガンメル先生についているギムレットを呼び起すことをとめることができなかった。だから、悪魔達をあらかじめ追い払えば、ギムレットは目覚めなくなるはずだって思っていた。ガルバドスが遺した黒魔術の魔法陣を突き止めて、バディドに手伝ってもらって塔に残されている魔法陣を全て壊したのに――。
この運命は変えられない。ギムレットが目覚めるのは決められた運命だった。悪魔達を押し込めたとしても、天使のうつし身であるアマレットがギムレットの眠りを妨げることは、変えることのできない運命。なら、どうすればいいのだろう? どうすれば良かったというのだろう?
「おい、リレ」
一瞬、自分が呼ばれていることに気付けなかった。バディドの苛立った声に気付いて、意識がゆっくりと現実に引き戻される。
――もうすぐここにも悪魔達がやってくる。
ギムレットが消えたとしても、ギムレットに呼び出された悪魔達がいなくなるわけではない。統率を失えば、悪魔は自らの本能に準じて行動を始める。低級な悪魔ほど生き物の血肉を好む。そして、悪魔は天使の霊素に惹かれやすい。
「おい! 今からでも逃げるんだ。ここで泣いていてもアマレットは喜ばない」
動かずにいると、先ほどよりも苛立ったバディドの声が飛んできた。
――逃げる? 一体どこに?
口元に嘲笑が浮かぶ。頭ではバディドの言葉が正しいことを理解していた。彼は状況を正しく判断している。この場所に留まっても解決策は出てこない。ガルバドスも目覚めてしまったのだから、天使の残り香と仇のガンメル先生を狙ってここに現れるはずなのだから。
それでも、私は知っている。たとえ、どんな結果になろうとももうすぐ5日目の鐘が鳴る。そうすれば、また私が入学した1日目の夜に戻るのだ。1日目の、初めて塔の鐘を聞いたあの夜に、何事もなかったように戻るのだ。
私は顔を挙げてバディドを見た。どんな表情を私はしているのだろう。一瞬、驚いた表情を彼は見せた。
「……何もかももうどうでもいいわ。もうすぐ鐘が鳴って、私はまた五日前に戻るのよ」
私以外の誰にも理解できない現実。この話は今、目の前にいるバディドも知っている。この三日目の夜に、私が彼に打ち明けた。彼は私の言葉を信じて、理解に努めてくれた。でも、務めたところで駄目なんだろう。だって、わかってくれて一緒に行動してくれたってバディドは――。いや、バディドだけじゃない。私以外のみんなが――。
「バディド。あなただってまた私を忘れるのよ。何度も忘れられて……、何度も始まりの夜に戻されて……。この苦しみがあなたにわかる? 何度も惨劇を迎えて今回もまた何もできなかった。誰も…、誰も助けることができない。自分だって」
本当にこの夜を抜け出ることができるのか。本当にこの繰り返される時間を止めることができるのか。
私は不安だった。この後に起こることも恐ろしくて怖くて仕方がなかった。その不安や恐怖を紛らわす為だけに、何の罪もないバディドに恰好悪く当たり散らしているだけだってことを、私は理解していた。それなのに止めなかったのは――。
――どうせ忘れられるなら…。
そう。忘れるなら何を言っても良い。そんな間違った考えが、私の中に歪んで生まれてしまっていた。
バディドは苦い表情をして私の言葉を聞いていた。そして、私が言葉を切るのを待って、もう一度口を開いた。
「……それでも、鐘がなるまでは生き延びなきゃなんねえだろ。行くぞ」
表情は硬く険しいまま私の腕をつかんだ。予想より強い力で引っ張られた勢いで立ち上がりかけたけれど、私は反発した。
「いや! 離して! どうせまた、みんな死ぬのよ! それだったらアマレットの傍にいた方がいいっ!」
アマレットの残り香にすがるのは何も悪魔だけじゃない。私だってすがりたかった。まだ、アマレットがここにいるって信じたかった。
死に物狂いで掴まれた腕を振り払った。私も気がふれてしまったのかもしれない。無理やり現実に引き戻すバディドが、煩わしくなった? それとも、腕を無理につかまれた腹いせだろうか? 一度紡ぎだされた残酷な言葉を続ける口がふさがらない。
「ねぇ、知っている? この繰り返される時の牢獄の中であなたは何度も私の前で死んだ。ある時は魂を悪魔に売り渡して私を助け、ある時は私をかばってガルバドスの手にかかって、ある時はギムレットに引き裂かれて――。この先に逃げたってギムレットが呼び出した悪魔達を従えたガルバドスが待ち構えているの。世界を脅かした魔王に逆らったところで、どうせ死んでしまう」
言葉を切ってじっとバディドを見つめた。バディドの表情から険しさは消えていた。ただ静かに私の言葉を聞いている。その瞳の色が哀しげにみえた。
「もういいでしょ? どうせ死ぬのよ。どうせ死ぬならここでいいじゃない。それに時間だって巻き戻る。どこにいても、何をしても、今さら何も変えられないのよ」
「……わかった」
掴まれていた手が不意に自由になった。急に離された反動で後ろによろめいた。
「わかったよ。俺がリレにとって役立たずってことがさ。リレはここにいればいい。望みどおりにすればいいさ」
半歩後ろに下がって彼は言った。そして、背を向けて扉に向かって歩いて行く。私は彼が扉の向こうに姿を消すまで金縛りにあったように動くことができなかった。
扉が閉まる音がやけに遠く聞こえた。
「バディド……?」
返事が返ってこない。私は慌てて扉に駆け寄った。開けようとしても扉は開かなかった。鍵はかかっていない。となれば外向きに開く扉の性質を利用して外側から開かないように何かをつっかえさせているんだ。
「バディド? 何をするの? ここを開けて!」
私は叫んだ。この先からガルバドスがこっちに向かってきている。外に入れば今すぐにでも悪魔達に出会うことになる。
「静かにしているんだ。部屋のクローゼットか倉庫にガンメルと一緒に隠れるんだ。そうすれば、バレないはずだ」
扉越しに声が聞こえてくる。魔法陣が錬金術の施設を呼び出す音も。
その時になってようやく気がついた。バディドがどうするつもりかを。
「どうして……」
「本当に死ぬかどうかなんて試してみないとわかんないだろ」
「無理よ!」
「無理だとしてもだ」
戻ってくる言葉に焦りは感じられなかった。でも、私の不安は掻き消しようがなかった。だって、私はこの後何が起こるかがわかっている。何度私とバディドが一緒にガルバドスを倒そうと画策しても、ガルバドスを倒すことはできなかった。バディド一人じゃ……。
「リレはここで鐘が鳴るまでじっとしているんだ。ここにはガルバドスは絶対にやってこないから安心してくれ」
「錬金術と黒魔術の相性は!」
「確かに悪い。だからってそれが負ける理由にはならない」
「相手は魔王ガルバドスなのよ!」
「俺が勝つかもしれないだろ。俺はシャルトルーズ先生の一番弟子なんだぜ」
「でも…でも!」
言葉が出てこない。もうすぐもう彼とは話せなくなるっていうのに。
私の気持ちを察したのかは分からない。ただ、バディドはこう言った。
「一緒に時間を遡れなくてごめん」
その言葉にはっとした。バディドは続けた。
「でも、約束する。俺はリレに会ったことを忘れない。だから、リレも約束してくれ」
静まり返った世界でその言葉ははっきりと聞こえた。
「必ず6日目を迎えるって」
それっきり言葉は途切れた。キメラが生まれる音。ゴーレムが起動する音。そして、バディドの足音が遠ざかっていく。
――私はなんてひどいことをバディドに言ってしまったんだろう。
今のバディドには『今』しかない。時間を遡ることや五日間の記憶を忘れてしまうことなんか関係ない。私だけが記憶をなくさずにいることも関係ない。時間がどんなに遡っていようと、時間がどんなに繰り返されていようと、流れている時間は紛れもなく『今』だった。
もうすぐ鐘がなることだって、今の最善を尽くすことに何も関係なかった。最善も尽くさないで、運命が変わることだけを祈っているだけじゃ、こんなにも困難な運命を変えることなんてできるはずがない。
私は立ちすくんでいた足に叱咤して、倒れこんでいるガンメル先生の元に駆け寄った。自分より大きな男の人を動かすのに苦労したけれど、なんとか人二人が身を隠すことができる戸棚を見つけてそこに身を隠した。今からあの扉を開けることはできない。無理に開ければ、せっかくのバディドの気持ちを無駄にしてしまう。
――ごめんなさい。
今にできる最善の行動を行うこと。そして、信じること。今の私にできたのはそれだけだった。
そして、五日目の鐘が鳴った。