ゆめとうつつと ――5――


 空中を移動したのだろう。
 匂いは空気にまぎれて、僅かにしか香ってこなかった。けれども、私にはそのほんの僅かでも跡が残っていれば十分だった。その跡を追って、建物の屋根を蹴って宙を舞う。確かに私は真っ直ぐその跡を追っていた。僅かずつではあるけれど、濃くなっていく匂いに私は道が間違っていないことを確信した。

 以前、アリババさんの匂いはどんな匂いがするのかと、問われたことがある。私は、他のどの匂いとも違うように感じたから、どう形容していいのかわからなかった。似た匂いを並べられても、私はハッキリとアリババさんの匂いをかぎ分けられる。どうしてかわからないけれど、それだけは実際にそうなると本能から感じ取っていた。
 その理由なんて知らなかった。アリババさんに再会して、彼女に強い好意を抱いていたことを自覚する前は。

――迷わずアリババさんを追いかけられるのは、大切な『仲間』だから、という理由だけじゃない。

 宙を駆けている間に、胸に抱いていた焦燥は落ち着き、胸の内が静かになっていく。
 悩み続けていた後悔は、アリババさんの身を案じた瞬間消えていた。後悔も悩みも忘れた訳じゃない。ただ、どんなに理由をつけても、自分の内側にある思いはたった一つだけだった。

 昨晩の記憶がないと言ったところで、全く身に覚えのないことでない。彼女を抱きたいという思いは以前からずっと私の内にくすぶり続けていたのだから。

 それをアリババさんに知られるのが怖くて、昨晩の行為を許そうとする彼女から私は逃げてばかりだった。そんな自分の態度が何よりもアリババさんに哀しい顔をさせていたのだと、思う。

 自覚した自分の思いを隠すことでアリババさんを苦しめてしまうなら、その思いなど隠さなくて良い。
 懺悔と共に告げて、その上でその思いが砕けるなら、それでいい。
 それが、私自身が選んだ私への罰だ。

 後悔は全て後ろに置いていく。

『……モル、ジアナ……』

 風に乗って声が聞こえた瞬間、私は足元を強く蹴った。
 一直線に、その声が聞こえた場所へと跳んでいく。

――アリババさん、私は。

 あなたのことが好きだ。
 あなたの傍にいたい。
 あなたを守りたい。

 あなたを誰にも渡したくない。奪われたくない。
 あなたを私だけのものにしたい。
 あなたから離れたくない。

 あなたと、どこまでも一緒に行きたい。

 元奴隷として過ぎたる思いであることはわかっている。
 けれども全て話してしまおう。どんな結果になろうと告白しよう。

 建物の分厚い土壁を、音を立てて私は突き破った。






 土ぼこりが舞う薄暗い部屋の中でも、私の眼ははっきりと相手を捕らえていた。
 匂いで敵が誰かもはっきりとわかる。自分の能力をこれほど恨めしく思ったことは今ほどないだろう。敵が分かるのと同時に、ベッドに押し倒され、裸体のまま組み敷かれているのが誰なのかもわかってしまったのだから。

 それを認めた瞬間、何かを考える前に体が動いていた。
 暗闇の中、跳び込み、うなる右足を突きだせば、身を起こした相手に足が届く前に見えない障壁――魔法使いの強固な防護壁に遮られる。こうなることはわかっていた。弱い防護壁なら壁ごと相手を蹴り飛ばされるが、相手がマギとなればそんなに簡単にはいかない。
 が、そんな相手が軽く浮いた。相手の足場がベッドの上だったせいだろうか。不安定な足場と不利な体勢で力の相殺を誤ったのか。その一瞬を逃さず私は足にいっそうの力を込めた。バランスを崩し浮いた防護壁ごと、ジュダルを部屋の壁へと弾き飛んでいく。
 そのまま間髪いれず、ジュダルから庇うようにアリババさんの前に立った。

「アリババさん。遅くなって、すいませんでした」
「……モルジアナ、なの、か?」
「はい」

 近くにあった布を空気にさらされたままの彼女の肌を隠すように被せた。その近くに、布包みのままの彼女の剣をそっと置く。周囲に散らばった衣服が目に入り、拳を強く握りしめて部屋の奥を睨みつけた。手首の拘束を今すぐにでも外してあげたいが、その隙を相手が与えてくれるとも思えなかった。

「チッ。来るのが早えーよ。こっちはお楽しみ中だったんだから、空気読めよな」
「……」

 杖を胸元から取り出した相手と静かに対峙する。
 怒り、というものは本当に感じてしまうと何も言葉が出てこないらしい。
 胸を焦がす怒りとは対照的に、状況を観察する思考は冷静だった。腕の眷属器に、炎がぼんやりと灯る。アリババさんの近くに金属器を置くことで、眷属器が使えるようになるかどうかは賭けだった。

「……もう、遅れはとりません」
「眷属器使いのくせに俺に勝てるとでも思ってんの?」
「試してみますか?」

 腕輪から伸びる鎖は、私の意思がそのまま伝わっているかのように小さく音を立てている。

 どちらが先に動くのか。

 睨みあいながらいつでも跳びかかれるように、足幅を僅かに広げた。

「――アモン」

 そんな中、部屋に響いた声は、小さくとも私でもジュダルのものでもなかった。

「!?」
「!?」

 振り返らずとも背から感じる熱気。目の前のジュダルも予想外のアリババさんの行動に、息を飲んだようだった。
 ジュダルから目を逸らさないようにしながら、視線をずらせば剣を手に立ちあがり魔装をしているアリババさんの姿があった。よほど想定外だったのか、ジュダルはアリババさんの姿を呆けるようにして見ていた。
 暗闇でもわかる赤と黒が混じった鎧が、内側に炎を秘めているように淡い紅い光を放っている。
 剣は構えているが、アリババさんの足元はまだおぼつかないように見える。立っているのも辛そうだった。

 一拍置いて、呆けてアリババさんを見ていたジュダルが声を立てて哂った。

「は、ははははは! よくその身体で動けたもんだな。……仕方ねえなぁ。アリババクンの根性に免じて今日は引いてやるよ」

 そう哂いながら、ジュダルは空中に細かい氷の槍を一斉に出現させた。杖が振り下ろされるのと同時に、それらが迫ってくる。

「炎翼鉄鎖――アモール・セルセイラ――!」

 私の叫び声と共に、眷属器の鎖が宙を舞う。熱を帯びた鎖で、その全ての氷の槍を砕き、蒸発させていく。
 一瞬視界が真っ白な水蒸気で包まれ、部屋に空いた穴から人影が出ていく。視界が晴れた後はジュダルがいた場所には誰も残っていなかった。

――逃げたのか?

 周囲に意識を張るが、隠れてこちらを狙う気配はもうない。本当にジュダルは去ったらしい。
 ゆっくりと私が息を吐いた後ろで、とさり、と音がした。その音に振り向けば魔装が解いたアリババさんがベッドの端にもたれかかるようにしてしゃがみ込んでいた。